水島爾保布「痴語」とひな人形展 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
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情報誌に大正時代に一番精彩のあった水島爾保布について書いた。戦後は疎開したまま地元長岡に隠棲したので、この時代の爾保布について面白いことはなにもない。昭和30年代に亡くなっているから、あっても分からない。もう少し、早い時期に関係者に話だけでも聴いてみるべきでした。記事は後ほどアップしますね。Y崎さんが那和秀峻(ひでたか)「名機を訪ねて/戦後国産カメラ秘話」を置いていったので、手元において仕事の合間に眺めている。

数年前に図書館蔵書で読んだことがあるのでポツポツと拾い読みですが、案の定すっかり忘れています。先日どこぞの記事で本を読んで忘れないための読書術を紹介していましたが、気にせずに忘れることです。忘れるために読む。気に懸かったら再び読んで、遠慮しないで忘却するのです。先ブログで紹介した武林無想庵、芥川龍之介、谷崎潤一郎は古典を端から引用しながら丁々発止と論談留まるところがなかったそうで、博識で無想庵、気迫で谷崎が勝ったとあります。

10代でその鼎談を目撃した山本夏彦は、半端な知識などなにほどのものがあろう。多分な知識をひけらかして偉ぶるものなど嗤って相手にせぬ。と書き、その時点で物書き志願は諦めた。無想庵と藤村藤村との交友は深かったが、博識ゆえに「若菜集」はゲーテをそのまま拝借、散文はフローベールの換骨奪胎、評判をとった「水彩画家」からはイプセンの影響は見て取れて感心もしなかった。その知識が自縄して優れた作品を残すことができなかったと山本夏彦は分析する。はい、忘れましょう。

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 お内裏の髪(くし)の乱れに永き刻過ぎ越し時の想いこもれり

昨日、Gホテルでひな人形展示のオープニングがありました。写真上人物中央は越後長岡藩の、右が戊辰で疲弊した長岡藩に米百俵を送った三根山藩主の後裔であります。三根山藩は現在の巻町の辺りの小藩で、長岡藩の分家筋です。最初は本家にならって薩長に逆らったのですが、貧乏小藩ゆえ闘うにも資金無く、あっさり転向降伏したもようです。そんな引け目に加え長岡の惨状を見るに見かねて“米百俵”送ったのでした。三根山藩も借財が多い中での“米百俵”はやはりきつかったそうです。そんなお話を伺いました。