http://soumoukukki.at.webry.info/201003/article_11.html  


朝鮮進駐軍 
概要 

一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 
GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。 

朝鮮進駐軍による朝鮮人犯罪及びテロ行為について 
服装・武器及び組織について 

戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本空軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。 

時代背景 

当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。 

朝鮮人による犯罪 

朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。 

市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。 

1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。 

第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。 

主な事件一覧 

朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。 

大阿仁村事件(1945年10月22日) 

生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日) 

直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日) 

富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日) 

長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日) 

富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日) 

坂町事件(1946年9月22日) 

新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日) 

首相官邸デモ事件(1946年12月20日) 

尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日) 

阪神教育事件(1948年4月23日~25日) 

評定河原事件(1948年10月11日~12日) 

宇部事件(1948年12月9日) 

益田事件(1949年1月25日) 

枝川事件(1949年4月6~13日) 

高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日) 

本郷村事件(1949年6月2日~11日) 

下関事件(1949年8月20日) 

台東会館事件(1950年3月20日) 

連島町事件(1950年8月15日) 

第二神戸事件(1950年11月20~27日) 

四日市事件(1951年1月23日) 

王子事件(1951年3月7日) 

神奈川事件(1951年6月13日) 

下里村役場事件(1951年10月22日) 

福岡事件(1951年11月21日) 

東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日) 

半田一宮事件(1951年12月3日~11日) 

軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日) 

日野事件(1951年12月18日) 

木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日) 

姫路事件(1952年2月28日) 

八坂神社事件(1952年3月1日) 

宇治事件(1952年3月13日) 

多奈川町事件(1952年3月26日~30日) 

田川事件(1952年4月19日) 

岡山事件(1952年4月24日~5月30日) 

血のメーデー事件(1952年5月1日) 

上郡事件(1952年5月8日) 

大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日) 

広島地裁事件(1952年5月13日) 

高田派出所襲撃事件(1952年5月26日) 

奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日) 

万来町事件(1952年5月31日~6月5日) 

島津三条工場事件(1952年6月10日) 

醒ヶ井村事件(1952年6月13日) 

葺合*長田事件(1952年6月24日) 

吹田*枚方事件(1952年6月24日~25日) 

新宿駅事件(1952年6月25日) 

大須事件(1952年7月7日) 

舞鶴事件(1952年7月8日) 

五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日) 

参考文献 

法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年 

横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年 

篠崎平治『在日朝鮮人運動』1955年 

大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年 

新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年 

名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年 

瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年 

山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年 

宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年 

大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年 

警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年 

兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年 

愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年 

青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年 

坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年 

警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年 

思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年 

仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年 

長崎県警察史編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年 

李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年 

福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年

山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1980年 

警察文化協会編『戦後事件史』1982年 

日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年 

講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年 

朴慶植『解放後 在日朝鮮人運動史』1989年 

百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年 

金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年 

荒敬『日本占領研究序説』1994年 

百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年 

竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年 

『秋田魁新報』1945年 

『神奈川新聞』1951年 

『西日本新聞』1951年 

『中部日本新聞』1951年、1952年 

『大阪新聞』1952年 

『京都新聞』1952年 

『神戸新聞』1952年 

『山陽新聞』1952年 

『中国新聞』1952年 

(ここまで、
http://anond.hatelabo.jp/20100131154721 より抜粋転載。) 



「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)  
 彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。 

(ここまで
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/14099974.html より抜粋転載。) 


●終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃● 
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「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。 

約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。 
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。 
そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。 

戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。 

在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。 
GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。 

戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。 

「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。 
これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。 

国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチ ンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。 

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。 

財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。 

「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。 

在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。 
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。 

腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。 

通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。 

善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。 

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。 
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。 

警官が駆けつけても手も足もでない。 
終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、 

「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」 

と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。 

戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。 

今の朝鮮総連となる「在日朝鮮人連盟中央総本部」 


 

(1/6)朝鮮総連と癒着して市民デモを危険に晒す京都府警 

http://peevee.tv/v?6hpac1 

(2/6)朝鮮総連と癒着して市民デモを危険に晒す京都府警
http://peevee.tv/v?6hpb8e 

(3/6)朝鮮総連と癒着して市民デモを危険に晒す京都府警
http://peevee.tv/v?6hpc25 

(4/6)朝鮮総連と癒着して市民デモを危険に晒す京都府警

http://peevee.tv/v?6hpd96 

(5/6)朝鮮総連と癒着して市民デモを危険に晒す京都府警

http://peevee.tv/v?6hpf4f 

(6/6)朝鮮総連と癒着して市民デモを危険に晒す京都府警

http://peevee.tv/v?6hpgf5 



平成22年10月27日追記
(参考リンク)
「今のままの日本人の危機意識の無さでは、終戦直後の日本の惨劇・悲劇(4000人が殺害された実数はそれの2倍と言われている)は近いうちに日本で必ず起こる出来事です。」

http://blogs.yahoo.co.jp/tydm1543/17527995.html

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【昭和26年03月22日衆議院法務委員会】 

【押谷委員】 
お尋ねをいたしますことは、昨朝起りました朝鮮人による米兵に対する暴行事件であります。 

昨二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千束町の朝鮮マーケット附近におきまして、六名の米兵が多数の鮮人に取囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、一名は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壞されるというような不祥事を起したのでありますが、わが国の講和を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位などから考え、この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。 

終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。 

銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。 
だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買えなかったが。 

そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。 

そりゃ儲かるだろう。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。 

当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。 
仕入れこそ難しかった。 

彼等は日本人露天商を襲って商品を奪う。 

それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。 
警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、 
捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。 

上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。 


当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした。 


東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。 

当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。 

永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。 

そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。 

この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。 
上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。 
かくて南関東から、牛はいなくなった。 

家/畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。 
川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。 

翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、 

「俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。 


それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。 
幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。 

年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。 
孫共はこれを知らんのだろう。 

直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。 
いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。 

闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。 

今、朝鮮人が駅前の一等地でパチ/ンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。 

それでも警察は手が出せなかった。 
歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。 

ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。 

七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。まこと敗戦は悲しからずや。 

たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。 

最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。 


それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。 

この時、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、 

「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」 

と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。 
だから、外国人差別用語なはずは無い。 
彼等自身、マッカーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。 

連合国軍総司令官は、日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職であった。 

何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。 

「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。 


終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。 

東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。 

当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。 

これを受けて述べたのが、マッカーサーの 
「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。 

1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。 

その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。 
不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。 

すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか 
「我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。 

警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました 

警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。 

この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。 

死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です) 

逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。 
勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する 
抗議としてであると述べています。 

日本人として、在日朝鮮人への危機感は常に持つべきですね。 


言っておくが日本国内だけではない。 

朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆忘れてしまったのか。 

多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、帰れなかった人は数知れない。 

彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は決して出てこないはずである。 

このことを誰も伝えようとしないが、事実は決して消える物ではない。 

朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。 

(ここまで、http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html より抜粋転載。) 


そして、この様な不逞在日韓国朝鮮人による日本人虐待差別は今も行われ続けている。 
そして、日本の警察はその様な不逞な在日韓国朝鮮人どもと癒着し自国民である日本人を迫害している

 

 

 

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