科学における証明は「ある」と主張する肯定側が負うべきとされている。したがって、「ある」が証明されなければ「ない」と見なされる。証明抜きで無限に発せられる荒唐無稽な主張に対して、否定する側が全ての可能性を反証しなければならないというのは不合理だからである。

魔の証明という言葉は、主に次のような形の主張への攻撃または批判の道具として使われる。

「月の裏側にウサギがいないという証拠は無い」「だから月の裏側にウサギはいるだろう」
つまり「○○が存在しない、という証拠はない」から、一気に飛躍して「だから○○は存在する」と変化するタイプの主張である。しかしこのような主張を認めると、ほぼどんな物でも存在すると言えてしまう。ここで例として「ウィキネコ」という仮想の生物を今から考えてみよう。ウィキネコは歯が100本あるとしよう。また色はピンク、そして全長はたったの5センチメートル、性格はかなり臆病で、人間には全く近寄らない、主に土中深くに穴を掘って暮らしている、としてみよう。そうするとやはり「ウィキネコが存在しない」という証拠はまったくないのだ。そしてここから「ウィキネコは存在する」という結論を導いてみれば、上のような月ウサギの議論が如何に馬鹿げているかは分かるだろう。このような「存在しない証拠はない」「だから存在する」という形の主張は擬似科学でも非常に多く見受けられる。より一般的には存在の問題だけでなく、あらゆるタイプの主張がこのような形をとる。それらは一般化すると、「○○という説が間違いである、とは誰も言えない」から一気に飛躍して「だから○○という説は正しい」と変化する形の主張、として括る事が出来る

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