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年賀状、減少止まらず…「嵐」2年連続で起用も
リンク先の記事字の中で社長さんが
日本郵便の親会社、日本郵政の長門正貢社長は「相手を思い、書状にして年初めに送る文化を守りたい」と話す。年賀状ははがきの年間取扱枚数の約3割を占め、利用が減り続ければ、郵便事業全体への影響は避けられない。
っていってますけど、個人的には年賀状って別になくなっても構わないです。お世話になった人に何らかの形で挨拶が出来ればそれで良いです。
というのも年賀状って遠く離れた場所にいて直接会えない人に「明けましておめでとう」を伝える手段じゃないですか。
はるか昔、人類に読み書きそろばんが普及してなくて、それどころか紙もない時代には直接会って挨拶出来るご近所さんなんかとしか正月の挨拶が出来なかったわけです。
「やーやーばぁさん元気かい」
「えー。あたしも歳くったどもこうしてまた正月を迎えられましたよ」
「そうかいそうかい。お互い体に気ぃ付けにゃぁならんのぅ。」
「そうじゃのう。今年もこうやって歳神様に命もろうたからにゃ元気ですごさにゃならんのぅ」
「ほうじゃほうじゃ、めでてぇことじゃ」
みたいな挨拶を交わしてたんです。
やがて文明が発達し紙が発明され、文字を書くことのできる貴族の間で遠方の方にも挨拶を、ってことで年賀の書を送りはじめ、一般庶民にも年賀状という習慣が普及したのは江戸時代とかそこらへんですよ。
それくらいの時代になると人付き合いの幅も広がってて、新年の挨拶回りをする対象が増えてて全員に挨拶するのが大変になったんですね。なので挨拶簡素化のために年賀状を送り合うっていう挨拶簡素化の手段として年賀状が普及していきました。
なので日本郵便のしゃっちょさんは年賀状を日本の文化って言ってますけど、年賀状の本質はあくまで年賀のあいさつを遠方に届ける手段であって、別に年賀状に書いて郵便で送ることがじゃないと思うんです。年賀状は手段です。しかも文化というのであればそれは「簡素化」の文化です。
昔ですから当然ネットもパソコンもない時代です。なので手書きの年賀状しか送る手段がなかったってだけで、しかもそれが「文化」と言われるくらい長期間続いたってだけで、メールで年賀の挨拶が出来るならそれで全然構わないじゃないですか。郵便局を介すよりよっぽど早く確実に相手に届きますよ。年賀挨拶を電子データで送信するっていうのは「簡素化」という視点でも合点がいくわけです。
いやいや年賀状に手書きで書いたら思いが伝わるとか言いますけど、チョットマッテ僕が今年もらった年賀状って、表も裏もほぼ印刷物で裏面に一言コメントが添えられてる程度のものばかりでしたよ。そんなものなら裏面に印刷してる画像データをメール添付で本文に一言コメントをタイプして送信すれば済む話じゃないですか。印刷の手間が省けるうえに年賀状の保存場所にも困らないし。
しかも心を込めてタイプした文章と心を込めて手書きしたけど汚すぎて読めないような文字を比較したら絶対前者の方が気持ちが伝わるんじゃないかと思うんですよ。だって読めるんだから。
実際のところ年賀状がなくなって困るのって郵便局だけだと思うんですよ。みんなが買ってくれる年賀状の収入が減るわけなんで。
けどもう今はネットがあるわけで。しかもみんな「年賀の挨拶」はしてるじゃないですか。手段が違うだけなんですよ。文明の発達でより安価により手軽に「年賀の挨拶」が出来るようになったってだけですよ。そこはもう割り切って電子書籍みたくネットを使った新年の挨拶サービスを考えるしかないでしょ。みんなが使いたくなるようなサービスを考えて年賀状の減収分を埋めるしかないでしょ。
それを「年賀状」っていうハガキを贈ることが「文化」だとかマナーだって言い続けて何の意味があるのか。べつにハガキを贈りたい人は送り、メールを送りたい人は送るっていう選択の自由があって何がいけないのか。
結局守りたいのって「文化」じゃなくて「収入」じゃないのか、時代の変化に伴って提供するサービスを変えられない思考停止状態ではないのかって思えてしょうがないのです。
年賀状、減少止まらず…「嵐」2年連続で起用も
リンク先の記事字の中で社長さんが
日本郵便の親会社、日本郵政の長門正貢社長は「相手を思い、書状にして年初めに送る文化を守りたい」と話す。年賀状ははがきの年間取扱枚数の約3割を占め、利用が減り続ければ、郵便事業全体への影響は避けられない。
っていってますけど、個人的には年賀状って別になくなっても構わないです。お世話になった人に何らかの形で挨拶が出来ればそれで良いです。
というのも年賀状って遠く離れた場所にいて直接会えない人に「明けましておめでとう」を伝える手段じゃないですか。
はるか昔、人類に読み書きそろばんが普及してなくて、それどころか紙もない時代には直接会って挨拶出来るご近所さんなんかとしか正月の挨拶が出来なかったわけです。
「やーやーばぁさん元気かい」
「えー。あたしも歳くったどもこうしてまた正月を迎えられましたよ」
「そうかいそうかい。お互い体に気ぃ付けにゃぁならんのぅ。」
「そうじゃのう。今年もこうやって歳神様に命もろうたからにゃ元気ですごさにゃならんのぅ」
「ほうじゃほうじゃ、めでてぇことじゃ」
みたいな挨拶を交わしてたんです。
やがて文明が発達し紙が発明され、文字を書くことのできる貴族の間で遠方の方にも挨拶を、ってことで年賀の書を送りはじめ、一般庶民にも年賀状という習慣が普及したのは江戸時代とかそこらへんですよ。
それくらいの時代になると人付き合いの幅も広がってて、新年の挨拶回りをする対象が増えてて全員に挨拶するのが大変になったんですね。なので挨拶簡素化のために年賀状を送り合うっていう挨拶簡素化の手段として年賀状が普及していきました。
なので日本郵便のしゃっちょさんは年賀状を日本の文化って言ってますけど、年賀状の本質はあくまで年賀のあいさつを遠方に届ける手段であって、別に年賀状に書いて郵便で送ることがじゃないと思うんです。年賀状は手段です。しかも文化というのであればそれは「簡素化」の文化です。
昔ですから当然ネットもパソコンもない時代です。なので手書きの年賀状しか送る手段がなかったってだけで、しかもそれが「文化」と言われるくらい長期間続いたってだけで、メールで年賀の挨拶が出来るならそれで全然構わないじゃないですか。郵便局を介すよりよっぽど早く確実に相手に届きますよ。年賀挨拶を電子データで送信するっていうのは「簡素化」という視点でも合点がいくわけです。
いやいや年賀状に手書きで書いたら思いが伝わるとか言いますけど、チョットマッテ僕が今年もらった年賀状って、表も裏もほぼ印刷物で裏面に一言コメントが添えられてる程度のものばかりでしたよ。そんなものなら裏面に印刷してる画像データをメール添付で本文に一言コメントをタイプして送信すれば済む話じゃないですか。印刷の手間が省けるうえに年賀状の保存場所にも困らないし。
しかも心を込めてタイプした文章と心を込めて手書きしたけど汚すぎて読めないような文字を比較したら絶対前者の方が気持ちが伝わるんじゃないかと思うんですよ。だって読めるんだから。
あと、現状の人間関係って必ずしも年賀状を送り合える間柄だけじゃないです。メールアドレスは知ってるけど住所は知らないとか、ブログを書いてる人と読んでる人とか、歌を歌う人と聞く人とか。
そういう複雑化する関係性の中なので「年賀状を送る」っていう挨拶の手段だけを尊重するんじゃなくて、挨拶の手段の多様性こそ尊重されるべきなんじゃないかと思います。
伝えたい相手に伝わりやすい形で、それは手書きの年賀状でもメールでもSNSでも歌でも良いと思います。年賀状は相手に想いを伝える手段のひとつです。
実際のところ年賀状がなくなって困るのって郵便局だけだと思うんですよ。みんなが買ってくれる年賀状の収入が減るわけなんで。
けどもう今はネットがあるわけで。しかもみんな「年賀の挨拶」はしてるじゃないですか。手段が違うだけなんですよ。文明の発達でより安価により手軽に「年賀の挨拶」が出来るようになったってだけですよ。そこはもう割り切って電子書籍みたくネットを使った新年の挨拶サービスを考えるしかないでしょ。みんなが使いたくなるようなサービスを考えて年賀状の減収分を埋めるしかないでしょ。
それを「年賀状」っていうハガキを贈ることが「文化」だとかマナーだって言い続けて何の意味があるのか。べつにハガキを贈りたい人は送り、メールを送りたい人は送るっていう選択の自由があって何がいけないのか。
結局守りたいのって「文化」じゃなくて「収入」じゃないのか、時代の変化に伴って提供するサービスを変えられない思考停止状態ではないのかって思えてしょうがないのです。
そして自分に届く形骸化した年賀状を見て思います。
あなたが届けたいのは「年賀状」ですか?「気持ち」ですか?と。