再度紹介します:
「証拠のある日本人スパイのことを良く知っておくべきですね。日本のマスコミの根幹を為すところの「大物」は実はCIAのスパイだったのですから。
CIAスパイ 正力松太郎 暗号名「ポダム」
作成日時 : 2010/03/02 02:43
「本日発売の週刊新潮2月16日号で、早稲田大学の有馬哲夫という教授が、正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実を明らかにした。その根拠は、例によって、米国公文書館の公開された外交機密文書である。しかも彼が見つけた文書はいまだ殆ど誰も手にしていない文書であるという。研究者にとっては願ってもない貴重な文書だったと有馬教授は述べている。この発見がこれからどこまで日本で波紋を広げていくのか」
http://0012340.at.webry.info/201003/article_4.html
(NARAはアメリカ合衆国の公文書館であるから、資料の内容はもちろん戦勝国アメリカ中心である。
しかし莫大な資料を丁寧に発掘することで日米史検証の有力な補助資料が発見されることもある。またアメリカから見た日中、日韓、日露関係の資料を得ることもできる。日本国立公文書館との大きな違いの一つは、機密指定をはずされたものは、大まかに処理されて中性紙製の箱に入った未整理状態でも一般人に閲覧許可される点である。膨大な未整理書類は、NARAを利用する時間が限られている日本人研究者泣かせで、日本関連文書を探してリスト・アップするだけでも大仕事
である。)
アメリカ国立公文書記録管理局
National Archives and Records Administration (NARA)
早稲田大学日米研究機構
http://www.kikou.waseda.ac.jp/wojuss/eng/about/profile_arima.html
有馬哲夫 早稲田大学教授
http://www.f.waseda.jp/tarima/
google で、national archives shoriki matsutaro”
で検索するとこれだけ出てきます
http://www.google.com/webhp?hl=en#q=national+archives+shoriki+matsutaro&hl=en&prmd=imvns&ei=x5vWT5njOo7PmAWG9aCdAw&start=0&sa=N&bav=on.2,or.r_gc.r_pw.r_qf.,cf.osb&fp=16452744f7b612f5&biw=1024&bih=667
上記の中の日本語の記事
http://onuma.cocolog-nifty.com/blog1/2012/06/post-927c.html
正力松太郎:元読売新聞社社主、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。
読売新聞を読む時、日本テレビのニュース番組を見る時はその背景を意識しておくことがとても大切です。
第二次大戦後の米国「進駐軍」は日本では圧倒的な立場にありました。その背景の下に「大正力」と呼ばれる元気者になれたのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E
現読売新聞グループ本社会長・主筆はこの人:渡辺恒雄。正力松太郎の流れを汲むこの人物が書く「読売新聞の社説」はヒドイものです。毎日のように売国奴としての社説。
大学の政治学部では読売新聞を使って、「今日の読売の社説はどのように売国的か」をテーマに勉強してほしいものです。
「政界では中曽根康弘との親交の深さが殊に有名。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を発揮してきた」。
中曽根首相の時にレーガン大統領が来日しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E6%81%92%E9%9B%84
日本の原子力発電--正力松太郎--CIA
再度紹介します。
このThe Economist の記事には、「正力松太郎はCIAのスパイだった」という断定が成されていませんので、次のブログを
ご覧ください。
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日本を『原発ヅケ』にしたのは誰なのか?
原子力ムラの司令塔、その意外な正体!〈第3回〉3/3
【日本のメディア王にして、日本の病根を作った男】
[原子力発電という選択肢、それは権力の階段を昇るための『道具』]
エコノミスト 2012年12月22日
▽ 原子力発電という選択肢
刑務所暮らしは、苦くつらい体験でした。
彼はあらゆる伝手を頼んで釈放運動をする一方、一日何時間も瞑想して過ごしていました。
ある時など正力が『私の読売新聞社における立場が危機に瀕している』として提出した嘆願書のデジタル化された記録が、ヴァージニア大学がオンラインで出版した東京裁判の資料集の中に残っています。
はた目には唐突に、正力に対する告発はストライキを行っている従業員たちにより「イデオロギー的立場、そして政治的立場からなされたもの」であり、信用できる証拠はほとんど無い、という決定をアメリカ占領軍当局が下しました。
この頃になると占領軍当局は、深く考えずに日本に持ち込んだ左派系の組合運動の行く末に、懸念を深めるようになっていました。
1947年8月22日、正力に釈放が言い渡され、ここに21ヵ月間に渡る刑務所生活が終わることになりました。
まだ公職追放の身分でしたが、正力は後に『巣鴨総合大学』は、彼に理想的な人脈を提供することになったと語っています。
正力は後に彼の後押しによって第一線に復帰し、日本を支配することになる右翼の大物たちとの親交を取り結んでいたのです。
それは日本が平和条約に調印した1951年の4年後にやって来ることになります。
この段階で正力は62歳になっていましたが、いよいよ心の底から手に入れたいと願っていた最終目標に向け、険しい崖を昇り始めることになります。
目指すのは政治権力。
正力はそれを手に入れるために、ふたつのものを用意しました。
テレビ、そして原子力発電です。
この二つを軌道に乗せるために、正力の後半生において辣腕をふるった一人の男性が登場します。
彼の名は柴田秀利。
彼は正力のもう一冊の伝記、正力が部下のアイディアをすべて取り上げて自分の功績にしていくやり方を克明に記した、佐野真一氏の作品の主な情報源でした。
しかし柴田自身は正力とは、互いにうまく相手を利用する関係であったようです。
ニュース解説者だった柴田は、アメリカが反共プロパガンダを世界中に広めるためにテレビを活用する計画が実施に移されるという話を耳にしました。共産主義こそは、かつての大日本帝国、そしてドイツ第三帝国の共通の敵に他なりませんでした。
柴田はある考えを正力に伝えました。
柴田が正力の名を公職追放リストから取り除くよう占領軍最高司令官を説得する代わりに、正力はテレビ局開設のための資金提供を行う、というものでした。
柴田が持つアメリカに対する人脈を利用し、正力は政府に対し、国営放送NHKによるテレビの独占を終わらせるよう迫りました。
しかしテレビ局もまた、正力にとっては政治権力をわが手に握るための道行きの、通過点のひとつでしかありませんでした。
1954年まで、日本では反米感情が沸騰していました。
この時正力の頭に、ひらめいたものがありました。今度は原子力発電を使って、日本人の対米感情を好転させることを思いついたのです。
その後まもなくドワイト・アイゼンハワーは『平和のための原子力利用』演説を行い、核兵器にまつわる悪い印象を払しょくすべく、原子力発電の利用促進に動きました。
正力はホプキンスに対し、日本側から同意を引き出すため、自分自身で提案書を携え、東京までやって来るように圧力をかけました。
読売新聞は1955年5月のホプキンスの来日を、第一面で大々的に伝えました。
20年前、ベーブ・ルースの来日の際、国民を熱狂させたし時と同じやり方で。
さらに正力は街角に巨大なスクリーンを設置し、巧みに原子力発電推進キャンペーンと日本テレビの宣伝を行ったのです。
その上で正力は原子力発電推進を図る仲間たちと、さらに同調者を増やすべく議会工作を続けました。
そして1956年、国会に議席を獲得するとともに自民党の結党にも奔走しました。
自民党はこの後55年もの間、与党として日本の政治の上に君臨し、今また政権に返り咲いています。
正力は政権閣僚の一人として、初代の原子力発電委員会の委員長に就任したのです。
そして委員会メンバーの科学者たちの驚きと大きな懸念を他所に、日本は5年以内に原子炉を建設すると宣言したのです。
それまでにも様々な検証事実がありましたが、正力はそれらが自らが示した方針の邪魔をすることを、一切許しませんでした。
話はそれだけでは終わりませんでした。
結局、正力の方針通り、日本最初の原子炉が建設されました。皮肉にもそれは米国製ではなく、英国製でしたが。
しかし正力は最終目標にまでたどり着くことはできませんでした。
日本国首相の地位です。
このため彼は、最晩年には挫折感に見舞われたものと考えられています。
この点についての話をしてくれたのは、正力のかつての右腕、柴田秀利の妻、やす子さんです。
現在82歳の彼女は、横浜の高級住宅街で余生を送っています。
正力・柴田のコンビは、日本の政界・経済界で縦横無尽に暗躍増したが、最後には柴田が飛び出す形で袂を分かちました。
その時、正力が柴田夫人のやす子さんに現金の入った分厚い封筒を渡した事を思い出し、夫人は忍び笑いを漏らしました。
少なくとも柴田夫人にとって正力は、化け物でも無ければ、もちろんお人好しでもありませんでした。
「人が正力を好きかどうか、それはもうどうでもいいことです。ただ正力はCIAに思い通りに操られるような、そんな小人物ではなかった事だけは確かです。」
柴田夫人はこう主張しました。
オーソン・ウェルズが演じた『市民ケーン』にも似た正力の最晩年、1969年の『失意の』日々について、柴田夫人が明らかにしました。
正力の夫人はすでに故人となっていましたが、正力は愛人とともに都内の薄汚れた家で暮らしていました。
正力は最後、この愛人の腕の中で息を引き取りました。
彼が危篤状態に陥った時、外では酔っぱらいが興奮して騒いでいましたが、正力はそれを正当な配分を得られなければ柴田が、自分を殺すと脅しているのだという幻覚をみていたようです。
しかし正力が自らの遺産について思い悩む必要はありませんでした。
それは日本の各所に、しっかりと根を下ろしてしまっていたからです。
〈 完 〉
http://www.economist.com/news/christmas/21568589-media-mogul-whose-extraordinary-life-still-shapes-his-country-good-and-ill-japans
皆さんはこの稿をお読みになった後、日本の原子力政策が、
将来のエネルギー政策について、日本にとって最良の選択肢について客観的な検討を行い、安全性について、必要十分な検証を経た上で実施にうつされた。
そう考える事はできますか?
より大きな権力を手に入れるため、原発は一部の人間にとってきわめて都合の良い道具だった。
しかも日本の場合、その周囲に群がる政治家や科学者、自治体などにふんだんに資金を供給できるような仕組みまでが用意された。
3.11に突き動かされて始まった、この【星の金貨】。
今回の翻訳は、その節目のひとつになったような気がしています。
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