今は昔 | 余白やの余談

今は昔

「1968年問題とは何か」を少し広げて思うに、私(たち)はホントに昔のことを知らない(昔というのは、自分の記憶のちょっと深いところのことで、私の場合は1960年代)。自分が生まれる前のことは「無い」。今の大多数の高齢者は戦争を知らない、戦後生まれには戦争は「無い」、無垢である。戦争を知らない老人たち。もちろんこれはグローバルにはちっとも通らない話なのだが。

 それはさておき、都市の住宅地がどんどん白っぽくなっているけれど、これは近年始まったことではなくて、60年代の中頃からのことだろう。空襲に会わなかった地方都市には戦前か大正、もしかすると明治時代に建てられた小住宅がその頃はまだ結構残っていて、それらがどんどん木造モルタル造りのモダンな(!)住宅に建て替えられていた。2軒隣のYさん宅が改築される前に家を少し整理されて出されたゴミの中に槍の柄があった。穂のないその槍は(穂はおそらく戦時中に供出された)永らくYさん宅の欄間に架けられていた。戦後京大を卒業して財閥系企業に勤めていた息子さんが帰郷して「こんな古いものはいらない」と捨ててしまったのだ、とY夫人が私の母に話しているのを何故か小学生の私も聞いていた。Yさん宅はかなり時代を帯びた下級武士の住居だった。黒光りする木部としっとり白い漆喰のコントラストの記憶がある。そういえばあの頃、近所のいろんな家の空間に子供の私は居たことがある。建物の中だけでなく庭の片隅や小さな池の側に。私の家にも時折近所の人たちが子供連れで訪れてお茶を飲んだりおしゃべりをしたり…、そんな空気が町内にあったのだ。小学校に通い始める以前の私は20人を越える大人(ほとんどは主婦。幼馴染の親ばかりではない)の顔と名前が一致していたと思うし、10軒を越えるほどの新旧の住宅空間を知っていた。そして、築10年足らずの小さな自分の家が一番好きだった。古臭いものはいらない、と感じていたのだった。