55冊目
「あるキング」
伊坂幸太郎
仙醍キングスは、負けて当たり前、連勝すればよくやったと感心されるような弱小プロ野球球団である。
そのお膝元である仙醍市に住む熱狂的キングスファン夫婦・山田亮と桐子との間に、待望の男児が誕生した。
王(キングス)が求めているような選手となるようにと、男児は「王求(おうく)」と名付けられた。
王求は成長とともに類いまれなる野球の才能を開花させていき、両親はそのサポートに全力を注いだ。
王求は本物の天才だった。
少年野球・中学野球・高校野球と環境が変わってもその才能には微塵の陰りも見えず、むしろ輝きは増すばかり。
しかし、天才の宿命か運命の悪戯か、王求には数多の試練が降り掛かり続ける。
それでも野球だけにひたすら邁進する王求に、光は射すのだろうか・・・
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正直言って、分からなかった。
何が分からなかったかと言うと、この物語の読み方・解釈の仕方が全く分からなかった。
この物語を部分部分で見ると、まるっきりいつもの伊坂幸太郎。
テンポが良くて、展開が上手くて、ぐいぐいと引っ張られるようにページをめくってしまう。
ただ、その間も頭の中では「分からない!」とアラートが鳴り続けていて、感情が全く乗ってこない。
こんな不思議な読書体験初めてかもしれない。
その理由はというと、やっぱり王求の感情の希薄さだろうか。
物語の主人公なんてものは、シチュエーションはどうあれどこかひとつの場面だけでも「本気」になるシーンがあるものだと思う。
「本気」で力を振り絞って、普段出せないような120%や150%の力を出すシーンが。
王求にはそれがない。
確かに王求は元々才能がある上に、他の誰よりも野球のために時間を割き日々鍛練をしてきた実績がある。しかし、それに見合う「熱」が感じられない。実力以上のものを振り絞ろうとする「熱」が。
それは王求が持つ才能が飛び抜けすぎているせいでもあるし、それが王たる者の悲哀だと言えるのかもしれないけれど、それでもやっぱり全然感情移入できない。
あと、3人の魔女とか、「きれいはきたない。きたないはきれい」とか、「バーナムの森が動くことがなければ」とか、シェイクスピアの『マクベス』を物語に絡めてあるのですが、シェイクスピアあんまり知らないので楽しめなかった、というのもあるかも。
全体的に野球小説を読んだ、というよりは野球を題材にした寓話を読んだ、という印象でした。
二回三回と読み込むと味が出てくるのかもしれないですね。
てめえの読解力が無いからだろ、とかは言わない方向で。