33冊目
「世界の終わり、あるいは始まり」
歌野晶午
埼玉・東京近郊で男児の連続誘拐殺人事件が発生する。
小学校低学年の男児を誘拐し、身代金の要求は男児が持たされている携帯電話から、親の職場のアドレスへ一回の送信のみ。警察の介入や身代金受け取りの成否に関わらず、男児は誘拐直後に射殺されているという残忍かつ徹底して証拠を残さない手口に近隣地域では様々な自営対策が採られ、警察もその威信を懸けて捜査を進めるが犯人への手がかりは未だ見つからない。
第一の誘拐事件が起こった家の目と鼻の先に住んでいる富樫修は、連日被害者宅に押し寄せるマスコミや野次馬に辟易としながらも、己の家庭の平穏さを喜んでいた。
うちには誘拐のターゲットとなる年代の家族は存在しない。しかも、第一の事件が起こった家と目と鼻の先にある我が家に、わざわざ犯人が目を付けるはずはない。被害者となった家は可哀想だとは思うが、我が家に被害がなくて良かった、と。
しかしある日、偶々小学六年生の息子・雄介の部屋に入った修は、机の引き出しからこれまでの被害者男児の親のものだと思われる名刺を発見してしまう。
もちろんその名刺には、仕事用のメールアドレスも記されている。
この名刺があれば、身代金要求のメールを送ることができる。
まさか息子が?
否定する材料を探すため、部屋を物色する修だったが、更に証拠となるものが次々と見つかる。
我が家はどうなってしまうのか。修の苦悩の日々が始まる…
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さすがは歌野さん。
こんな小説読んだことないです。
まだ小学六年生の息子が、凶悪な誘拐殺人に関わっているのかも知れない。
その想像が杞憂であってほしいと望む父親の苦悩が見所です。
この本を評するときには『崩壊と再生を描く衝撃の問題作』という文句がよく見られるんですが、ネタバレをしないように苦しみつつ、小説の内容を表現しているという意味で素晴らしいキャッチコピーだと思います。
作中で、何度か修が「駄目だ…」と呟くのですが、その一回目の衝撃といったらもう、世界が反転するようなものでした。まさに『崩壊と再生』、ですね。
ラストシーンはきっと賛否あると思いますが、修の心理状態から考えると最適なのではないかな、と思いました。
作品全体を通して『崩壊と再生』が語られているのだとしたら、このラストこそが『世界の終わり、あるいは始まり』なんだと思います。
しかしまあ歌野さんは、シリーズものをほとんど書かずによくこれだけ作品が作れるなぁ。
一発ネタが多いという理由もあるんだろうけど、それにしてもすごいわ。