今日の世相を鳥瞰(ちょうかん)して、一言にして説明すれば、根本歸趨(こんぽん・きすう)の大道(たいどう)、宗府を離れて、小徑(しょうけい)、支路(しろ)に踏み込んで、それに固執拘泥(こしつ・こうでい)し、而(しか)も互(たがい)に出離(しゅつり=迷いを離れて解脱の境地に達すること)を求めて、相騒ぎ相爭ふ、暗夜行路、妄迷擾亂(もうめい・じょうらん)の哀れむべき、悲しむべき、樣相(ようそう)である。
一方儼(げん)として、物的文化の飛躍のため、その面よりして、世界は却(かえ)つて、より有機的、一體化(いったいか)を強請(きょうせい)されてゐる。
この一大矛盾こそ時人(じじん=その時代の一般の人々)への一大苦惱憂悶(いちだいくのう・ゆうもん)の因なのである。而も時人は相對立(あいたいりつ)し、相反動(あいはんどう)によつて、これを打開せんとしてゐる。是れ亦(これまた)、大いなる迷妄である。これ時人の無知の證明(しょうめい)である。
蓋(けだ)し時人には最高究極の原理がない。
然(しか)らば、最高原理は何んであるか。
それは眞正(しんせい)の宗敎原理である。
宗敎とは、それは何か、
眞正の宗敎を分析すれば、その「本質」(根本理體(りたい=万物の本体))とその理體と「人間」との關係を開示する「敎へ」との三要素に依(よ)つてなる。科學的、物的面に、完全に支配培養(しはい・ばいよう)された時人は、より高次なる、宗敎的理體と、人間との關係に對する理解も、體認(たいにん)もなく、皮相(ひそう)の世界觀に立脚して、行動の軌範(きはん)としてゐる。そこに一大禍根(かこん)を藏(ぞう)してゐて、妄動迷亂(もうどう・めいらん)の循環を反復してゐる。互(たがい)に相手方を疑心暗鬼(ぎしんあんき)し、互に倒さんとしつゝある。これ修羅(しゅら)の樣相(ようそう)である。百鬼夜行(ひゃっきやこう)である。妄執(もうしゅう)の爲す處(なすところ)、又止(や)まんぬるかなである。綜合、歸一(そうごう・きいつ)の原理が、輝き、強行せざる限り、地上の光明化(こうみょうか)は望まれない。
時にとつて當(まさ)に、眞宗敎(しんしゅうきょう)の登場は唯一無二(ゆいいつむに)の最大條件(さいだいじょうけん)である。冬來(きた)りなば春近く。極端に支離紛亂(しり・ふんらん)した今宵(こんしょう)の明日は、やがて、綜合統一の殿堂であらねばならぬ。なさねばならぬ。
茲(ここ)に、此時(このとき)、綜合歸一(そうごうきいつ)の大原理の光明が、赫々卓然(かくかく・たくぜん)として、輝き出(い)づべきであり、出さねばならない。
扨(さ)てその光明は、宗敎と名づくる、ものゝ中より外(ほか)からは得られない。その宗敎の宗なる本質理體(りたい)が躍如として、活動を開始せねばならぬ。
宗敎の必要は今程(いまほど)大なる時はない。
扨(さ)て又、一般普通に所謂(いわゆる)「宗敎」は「宗」を度外視して「敎」の形骸(けいがい)を指して、「宗敎」全般と誤認(ごにん)してゐる。敎はその時、その處、その人を離れなば、既に早、魂のなき、生命のなき、形骸である。世上(せじょう)に所謂(いわゆる)の宗敎なる、生命なきその形骸が何んの役に立とう。
魚王なる、鯛も、ぴちぴち生きたものを、料理してこそ、味覺(みかく)を打ちふるわせるであらうが、腐敗の鯛を、食膳に上(の)ぼす愚人(ぐじん)はない。その腐敗の鯛魚を今なほ、人にすゝめんとするのが、既成宗敎である。
されば既成宗敎を捉へて、宗敎全般と認定するは、影を捉へて、實體(じったい)と誤認するものである。
唯々(ただただ)「宗」は萬古不動(ばんこふどう)、東西一貫、敎へを離れた眞理の當體(とうたい)であつて、論爭を越へた、理體理境(りたい・りきょう)である。儼(げん)たる事實(じじつ)そのものである。
火の熱き、氷の冷たき、山の高く、川の長く、花の紅(くれない)なる、光の早き、それである。
「宗」の域は即ち、低くは一面、科學の面と一如である。しかも高くは、幽玄妙化、人知を越へた機能に於て、越科學(えつ・かがく)である。
人にあつては、生命の神祕となり、天體(てんたい)にあつては、循環配列の軌則(きそく)を描き、人の世にあつては、現實事象となり、そのまゝに於て深甚微妙性を藏(ぞう)す。
時代は皮相三寸(ひそうさんずん)の知能をしぼつて、事を爲さんとする、亦(また)難(むずかし/かた)いわけである。
この宇宙本然の大軌制(だいきせい)に則(のっと)つて、人を人たらしめ、世を世たらしめんとするのが宗敎の眞使命であり、宗敎以外には求め得られないのである。
茲(ここ)に來て、最早(もはや)宗敎の要不要は論外である。
此の大軌制を如實(にょじつ)に、行使するのが、眞宗敎である。
而して、此の如實の行使の處に、偉大なる所謂(いわゆる)奇蹟を發生(はっせい)するのである。奇蹟は又、科學(かがく)であつて非科學ではないが、現代科學の程度からいへば超科學(ちょう・かがく)である。
本然の上よりいはば、當然(とうぜん)の現象である。我が敎は此處(ここ)から、發動(はつどう)された宗敎に外(ほか)ならぬ。科學の行く手に、捷徑(しょうけい=近道)を與(あた)へ、宗敎の殘骸(ざんがい)に生命を賦與(ふよ)する、活(い)ける理體(りたい)の發動そのものである。
即ち、今日暗黒の世界を、明日の光明の世界と變貌(へんぼう)する唯一の光である。
我が敎會内(きょうかいない)に日々現前(げんぜん)しつゝある、奇蹟は、論爭を越へた事實(じじつ)として、これを立證(りっしょう)しつゝある。
顔面の「アザ」の短日時の消滅
脚骨全體(きゃくこつぜんたい)が、普通人の三分一程の太さにて、二寸短きものゝ 全癒(ぜんゆ)普通化したるもの、頭蓋骨(ずがいこつ)の扁平型(へんぺいがた)の圓型化(えんけいか)等の事實現象(じじつ・げんしょう)は、正しく超科學、超理(眞宗敎)の發動を如實に、實現した驚異そのものである。
超科學、超宗敎(既成宗敎に對していふ)の一致點(いっちてん)に、靈能を發動する、その靈の現成底(げんじょうてい=目前の現象に宇宙の法則が成り立っている状態)こそこれである。これ等(ら)は又、現在の科學といふものゝ力は元より、他の如何(いか)なる施術(せじゅつ)を勞(ろう)するも與(あた)へられぬものである。豈(いわ)んや詐術(さじゅつ=人をだますはかりごと)などの及ぶ處(ところ)ではない。然(しか)も、目撃者の目前の事實(じじつ)なる故(ゆえ)に、批判詮議(ひはん・せんぎ)の餘地(よち)もなく、只首肯(しゅこう)あるのみである。茲(ここ)に特に、詮議(せんぎ)の餘地(よち)なき、活例(かつれい?)を擧(あ)げたのは、他の邪敎、迷信との峻別(しゅんべつ)を試み、以つて眞宗敎の神性を、瀆(けが)し、隱(かく)さんとするものに對蹠(たいしょ)した所以(ゆえん)である。眞宗敎さへ煥發(かんぱつ)されなば、忽(たちま)ち人も世も、此の如く光明化する所以を示さんためである。
我が敎會(きょうかい)に於て、初めて之(こ)れを見つゝあるのである。
誠に靈の力(れいのちから)は偉大である。
治病現象(ちびょうげんしょう)をその立證(りっしょう)として、こゝに引例したが、世界にわだかまる、一切の問題に決定的解決を與へるものは、唯一つ之れあるのみである。
世相の調整、延(ひ)いては平和建設への鍵もこの邊(あたり)に藏(ぞう)されてゐるといつてよい。
茲(ここ)に本誌を發刊して、廣(ひろ)く江湖(こうこ=世間一般)へ此事(このこと)あるを告げんとする所以(ゆえん)である。以下事實談(じじつだん)を抄錄(しょうろく)して眞宗敎(しんしゅうきょう)の偉大性と、微妙性をお傳(つた)へしたい。これを以て發刊の辭(はっかんのじ)に代(か)へる。 (以上敎主校閲濟)
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