シスター
で、こういう状態に入っているある修道女がいて、私はいろいろ訴えられていたんですが、
「もう私は信仰さえない。
神様に捨てられた」と。
すると彼女のまわりにいるいろんな人たちのなかで、三人の神父が、
「いや、それはお恵みだよ」
って言ってたんですね。その修道女は、若い頃から私の指導を受けたいと思っていた人なんですが、この方が手紙をよこした時に、これは重大なことだ、返事を書かなきゃいけないと思ったんですが、私は筆不精でね──。こんな文明社会にいると、文明社会に罪を負わしちゃいけないけれども、もう手紙もらって読むだけが一杯という状態の生活をしてきているでしょう──書かなくちゃいかん、書かなくちゃいかんと思いながら書かなかったんで、ふと行ってみようと思って、旅のついでに、彼女のいる名古屋に寄ったんですね。
その時には、彼女はその暗夜からすでに抜け出ていたんです。そしてね、私は合掌したなあ、もう、神様に本当に手を合わせたんですがねえ、
「神父さん、シスター誰々が悪いとか、この修道院の空気がよくないとか、そんなのはみんな嘘です。
私が悪いんです」
って言うんです。
「もし私が、もっと神様と一致していたなら、そういう状態は無かったはずです」
これはね、ある聖人が言う言葉として読んだことはあります。ですけど、本人の本当の言葉として、コトことばとして、僕ははじめて聞いたんで、僕は泣いたね、心の中で泣いた。それから、こういうこともおっしゃいました。
「神父さんねえ、自分の完徳、自分の完徳って、自分の完成とか、自分のことばかり考えるのは貞潔に反しますね。清さに反しますね」
って。
私は嬉しかったですねえ。何か出会ったと、本当のキリスト様のお弟子に出会ったというね……。
この人は、九月会議にも呼ばれたんですが、この時も、A・K・サラン(インドの哲学者)が、現代の学問の根底にある傲慢の精神について話した時に、後で言いましたねえ。
「ありがとうございました。私がどんなに罪深いかを本当に味わわせていただきました。ありがとうございました。」
つまり、あれが十字架の信仰なんです。ヨハネの言う、私はそこにとどまっている、私はいつもそこにとどまっているんだっていうところですね。ここに何を見るかというとね、僕は、そのシスターの中に何を見ているかというと、神様のあわれみの手、具体的に神の手を見ていたんです。
──『遠いまなざし』押田成人