明治以前、欧州では、ナポレオンの脅威に対抗する各国は、ロシアの呼びかけで「神聖同盟」を結成し、王族は、結束を強めます。
 
金を中心に据え、中央銀行が通貨の出し入れを調整することで、景気を操り、戦争でリセットする近代的な国家運営を確立しました。
 
 
そのころ、日本と中国(明・清)とは、金銀平価を調整し、資金をグルグルと回して、富を生み出すようなことをやっており、大航海時代でアジアにやってきた、ロスチャイルドの目にとまりました。
 
ロスチャは「何か、我々と似たようなことやってるなあ」と思い、参加しないか打診します。
 
英国は金本位制を始めようとしていたので、参加するに当り、持っている金を
差し出すようにいわれましたが、どうみても日中が保有する金の方が圧倒的に
多いため、まっぴらごめんと、日中は断りました。
 
それで仕掛けられたのが、阿片戦争です。負けた清は、領土を100年間かじられました。
 
日本は明治維新です。開国するまでに14年間もかかっていますが、金を全部
差し出すか、日中で相談していたのです。坂本龍馬の話など、本当にどうでも良
い枝葉末節なことでした。
 
 
 
 
私のお勉強・備忘録としてメモをつけます
 
<金が安かった日本とマルコ・ポーロ>
 
人口当たりの産出量が,唐や宋よりも高水準にあり,鎌倉時代に一切経の購入に多額
の金が使用されたように,中国からの輸入に金を用いるのが有利であつた。金の多くが中国に輸出され,元代に入つてから日本が大変な産金国であるとの噂が
立ち,マルコ・ポーロが黄金のジパングの話をヨーロッパに伝えこれがコロンブスの大西洋航海の動機となつた。
 
東洋では古来金銀比価は6前後であつた。ところが中国では元代の13世紀の初め,
金がいちじるしく高くなり,比価が12まで上昇した.しかしその後再び14世紀末には
56まで戻り,これが16世初まで続いている.この動きは,蒙古帝国の影響と思う。
 
マルコ・ポ口の時代,金銀比価は,国際的な比価が形成された。ヨーロッパでは13世紀初,銀貨主体から金貨併用の時代に入り,実勢比価12の中で,公定を10とし,価値のある金の退蔵が進み金不足が発生した。
 
マルコ・ポーロの求めたのは,東洋の金であり,それが中国の金銀比価を大きく
変動させた。ところで,中国・元代に高騰した金銀比価も,日本は,相変わらず56で推移していた。すなわち日本における圧倒的な金安が,銅高とあいまって
,宋銭の大量輸入を生んだ
 
このような東洋における金安に変化をもたらしたのは,戦国時代から江戸時代の初期まで続く金銀大増産である.特に
16世紀初の「灰吹法」の採用は,それま
でほとんど銀の採れなかつた日本に大
変革をもたらし,金銀価,特に銀価が大幅
に下落する。そのため金銀比価も10
なり, コーロッパの水準に大きく近づいた
 
.一方その頃,中国では金銀比価がまだ
78であり, こに比価の逆転が発生し,
 日本からの銀の輸出と金の輸入が始まっ
。安土桃山期には,銀よりもむしろ金の
大増産がおこなわれていたにもかかわら
,金の輸入がおこなわれたのは,中国で
は銀を本位通貨として扱う動きにあり
,銀高が続いていたためである.
 
ーロッパでもドイツで銀の生産が大
幅増16世紀末になると,中南米で銀
の大々増産が始まつた.状況は完全に
変わり, コーロッパでは金銀比価が15
16になった。この状況が日本に影響
してくるのが,17世紀の初めから中程に
かけて。こんどは,日本は金安になった。
そして,膨大な金がヨーロッパに流出した