■ 「死は存在しない(田坂広志著)」で提唱されたゼロ・ポイント・フィールド仮説 死後の世界はあるのか?


様々な宗教や哲学がこの問いを考え答えてきた。そうした中、原子力工学を研究した科学者が、最先端の科学、量子物理学の立場から、肉体の死の次のステージが存在するとの仮説を唱えた。


ゼロ・ポイント・フィールド仮説
「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」を提唱する田坂広志氏は、原子力工学の博士号を有する科学者である。氏は話題になっている著書「死は存在しない」において、宇宙のすべての情報を記録する「ゼロ・ポイント・フィールド」という存在を想定している。量子物理学では我々が普段認識している「物質」なるものは存在せず、すべての存在物は素粒子であり、素粒子とはエネルギーの振動、波動である。そして何も無い「無」であるはずの「真空」の中にも莫大なエネルギーが潜んでいることがわかっており「ゼロ・ポイント・エネルギー」と呼んでいるとのことである。ここから田坂氏は真空の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」という場を想定した。その場には宇宙のすべての出来事の情報が波動として記録されている。そして記録されているものは減衰することなく、情報はすべて残り続けるという。なぜなのか、その原理は本書を読んで頂くとして、田坂氏はこの場に我々の意識が繋がることができるというのである。氏は意識を5段階の層に分類し、その最下層の無意識のレベルにおいて「ゼロ・ポイント・フィールド」とコミットすることができ様々な情報を引き寄せられるとしている。わかりやすい例では前世の記憶を持つ子供である。彼らは自身の記憶が残っているのではなく、無意識がゼロ・ポイント・フィールドにアクセスしてしまい、誰かしらの記憶を受け取ってしまったのだとする。

死後どうなるのか
では人間は死んだらどうなるのか。ゼロ・ポイント・フィールドには、宇宙のすべての出来事が記録されている。この現実世界も我々の意識も、全く同じものが同時に刻々と存在している。そして肉体が死を迎えても、意識はゼロ・ポイント・フィールド内の意識に移行するという。ややこしいが、フィールド内では記録されているものは減衰することはないので、肉体が死んだという事実も、コミットしている無意識も、そのまま残る。つまりフィールド内では、現実世界で行われている、生(生成)と死(消滅)を分ける意味が無い。そして移行した意識はこれまでの無数の人たちの記録、知識や感情と触れ合い、成長していくという。当然ながらそこには、先立った愛する人の意識もあるはずだ。その人たちの意識とも触れ合っていくことになる。ここまで来ると自我を超えた大きな超意識、「宇宙意識」と言ってよいものへと昇華していく。しかし個性が消えて真っ白になるわけではないそうで、聖者が悟りを開いたような状態になるのかもしれない。

古代思想の現代語訳?
田坂氏自身も触れているが、ゼロ・ポイント・フィールドは、インド哲学などで説かれ、ルドルフ・シュタイナーらによって知られるようになった「アカシック(アカシャ)レコード」とかなり酷似している。アカシック・レコードには宇宙で起こる、または起こった過去・現在・未来のすべての情報が記録されているといい、超感覚によってコミットすることができるという。また仏教の唯識思想が説く「阿頼耶識」の概念にも似ている。阿頼耶識は人間の意識を8段階の層に分類し、その最下層に位置する。7層目の「末那識」までは自我に属するが、阿頼耶識は人類全体に共通する海のようなもので、我々の意識は阿頼耶識という海から首を出しているようなものである。このように宇宙全体を貫く巨大にして無限な、我々には不可視の世界が存在するという思想は古代から説かれ続けていた。ゼロ・ポイント・フィールドはその現代的な表現だといえる。「科学」が持つ権威
ゼロ・ポイント・フィールド仮説は古代の宗教家、思想家が唱えた仮説を現代語に訳したとも言えるが、「量子物理学の専門家」の肩書に半分飲まれている人もかなり散見される。実績のある科学者が科学的用語で説明すると、それがどれほどオカルトめいたトンデモ説でも納得する人は多い。仏教やインド哲学は古臭くて信じられないが、最先端の量子物理学の専門家が言うなら…という認識は、その時点で唯物論的科学的価値観に囚われていると言える。

田坂氏は科学者として、他者としての「神」や「仏」、天国や霊界などの宗教的な世界を否定する。そして神や仏とは、実はゼロ・ポイント・フィールドのことだったとする。例えば、不思議な縁を感じる時がある。人の力を超えたような瞬間が訪れる時がある。人はそれを「神」や「仏」と名付けた。だがその正体は神仏のような他者からの恵みではなく、無意識がゼロ・ポイント・フィールドにコミットして、当該の情報を得ていたのだと解釈する。しかし宗教にあって科学に無いものに「絶対的な他者」の存在がある。レビューを見ても本書を読んで心から安心を得た人は少ないようだ。我々が救われるには「神」の愛や「仏」の慈悲のような意思を持った「他者」大きな温かさ、体温が必要なのではないだろうか。

現代の聖典になりうるか
科学的表現によって宗教的世界の体温がなくなってしまったように思えるゼロ・ポイント・フィールド仮説。それでもその現代的な解釈によって死後の安心を得られたり、愛する人を失った悲しみが癒やされるかもしれない。そうであるなら大きな意味がある。筆者は疑問だがこの仮説が現代の聖典になる可能性はなくはない。一度手に取ってみてもよいだろう。