十二弟子:使徒とも言われ、「使徒行伝」はイエスの12弟子を中心とした、イエスの復活後の後日譚です。また、12使徒の他に選抜されて2人1組として伝道に遣わされた、イエスの70人もしくは72人の弟子達を七十門徒といいます。


ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 


ペテロ:元漁師で、イエスを洗礼した洗礼ヨハネの弟子だったのが、弟アンデレと共にイエスに「人を取る漁師にしてあげよう」と声をかけられ、イエスの第一弟子となります。イエスは「あなたはペテロ(石)である。そして、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。…私は、あなたに天国の鍵を授けよう」と述べており、天国の鍵を授けられた人物として、後に初代ローマ教皇と仰がれます。ゲッセマネの園での祈りでは、同じ三弟子であるヤコブ・ヨハネと共にイエスに同行しますが、眠りに落ちてしまい、イエスが捕まった時には、イエスが最後の晩餐で「鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うであろう」と予言したごとく、イエスを三度否認して、その場を逃れます。イエスの十字架後、故郷のガリラヤ湖に戻って再び漁師になりますが、復活したイエスが湖面を歩いて来るのを見て、悔い改め、イエスのもとに馳せ参じます。後に皇帝ネロによりローマでの迫害が厳しくなった時、ローマから逃れてきたペテロが霊的イエスと出会い、「ドミネ・クォ・ヴァディス?」(主よ、いずこへ?)と問いかけますが、イエスが迫害のローマを逃れようとするペテロに代わってローマに行き、再び十字架にかかろうとするのを聞いて、ローマにそのまま戻り、殉教します。イエスと同じ十字架にかかっては申し訳ないからと、逆さはりつけになりました。これは1896年、ポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチが小説『クオ・ヴァディス』に描き、ハリウッドでも映画化されました。遺体はローマのサン・ピエトロ大聖堂に埋葬されています。人名にもピーター(英)、ピエール(仏)、ピョートル(露)、ピエトロ(伊)としてよく使われます。


 

 



 

 



 

 

パウロ:元々律法を厳格に守ることを求めるパリサイ派に属していましたが、分かっていながら欲望のために悪を行ってしまう人間のあり方に悩み、復活したイエスの声を聞いて回心(conversion)して、そこからの救済は福音(喜ばしい知らせ)への信仰によるしかないと考えました。さらにユダヤ教の枠を超えて宣教して、キリスト教が世界宗教に発展する基礎を築きました。ただし、パウロは生前のイエスと生活を共にしておらず、「神の国」の到来を告げる前期イエスの福音ではなく、十字架贖罪論に基づき、後期イエスの十字架に対する信仰を説いたので、今日のキリスト教はイエス教ではなく、パウロ教であるという批判があります。

「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(『ローマ人への手紙』):かつて熱心なユダヤ教徒であったパウロは、人間の罪深さに悩み、この苦しみからの救済は律法の行いではなく、ただ信仰によると考えました。

十字架贖罪(しょくざい)論:イエスの十字架上での死が人間の罪を贖う(贖罪)ためのものであるとすること。このように、イエスが人々の罪を贖うために十字架刑に処せられたと解釈したのはパウロです。もしイエスの十字架が必然であるなら、なぜ、最初から「私は全人類の罪を背負って十字架につくためにやって来た。悔い改めて十字架の福音を信ぜよ」と言わなかったのか、そもそも全知全能の神ならばメシヤをたくさん、毎年のように地上に送って、十字架につければよいではないか、という疑問、極論まで生じてきました。