将来帰趨すべき経済原理と統制に就(つい)て

『皇道経済』とは万物を生ぜしむる処の、普遍(ふへん)の大道の上に生まれ出(い)ずる経済が、即ち『皇道経済』である。


言い換えれば其の原理が、人為的に組織立てられたるものに非ずして、天為に従うところに出来上がる経済が皇道経済であり、そこには何等の矛盾を生ぜず、共存共栄となり、今日の如く、国の内外を通じて至る所の摩擦が、解消出来るのである。


その皇道は我国に於(おい)て最もよく行われ居るに拘わらず、其の皇道に依(よっ)て経済を合理化することをせず、将(まさ)に崩壊滅亡に瀕せる西洋の謬(あやま)れる経済を模倣して、光輝ある我が国をも混乱の禍中(かちゅう)に陥らしむることは、為政者の大いに反省すべく、国民の警戒すべき重大事である。


覇道(はどう)経済とは、五官により感受せる色相界を基本に組織立てられたる今日の経済がそれである。故に覇道経済は永遠に理想化すること難し。


如何となれば、五官に感ずる一切のものは、真実ならざるが故である。その例を一、二挙げんには、先(ま)づ色を見るに、其の色は物に在るに非ず、光に在るに非ず、目に在るに非ず、その三点の交叉したるところに初めて色を生ず。故に暗夜に色なく、聾(つんぼ)に音なし。音は空気の波動なるも、耳に聴き取り得る以外の波動は波動なるも音に非ず。その三点は常に、時と場所を変転して、マンヂの如く廻り一刻も固定することなし。斯の如く一切万有は、変転して常住することなき唯物の上に、経済の基礎を置くことは、流水面に楼閣(ろうかく)を画(えが)かんとするに異ならず。


故に今日の建設は明日の破壊材料となる。その矛盾は、経済の破綻(はたん)となり、世界人類の動乱の原因となるのである。何事も局部的に見て、判断を下(くだ)すことは実に恐るべき危険が伴う故に、皮相観に囚(とら)われず、真相を徹見して、最も易(やす)く、最も完全なる、大自然道、即ち『皇道』に復帰せしむることより他に、全き道なし。


其の『皇道』に気付かざる者の為すことは、即ち人為である故に、如何に智慧(ちえ)を絞(しぼ)り作り上げたる組織でも、その反面に必ず、影の如く不善が伴い、その不善を除かんが為に、又新たなる法網(ほうもう)を設け、遂には水も洩(もら)さぬ法網は、目は密に、糸細く、柄杓(ひしゃく)の如く、掬(すく)えども魚取れず、強いて用うれば網破れて用を為さず。故に法網は糸太く目荒きがよし。昔より鯨の網にかかる例少く、一本の銛(もり)にてよく射止めらる。国法も雑魚万疋(ひき)取らんとして、一頭の鯨を逃がすことは上策に非ず。故に国を始めんとするには、法網よりも人を選び、人を以って治めねばならぬ。万一、人を得ざる時は、法密なる程、不徳漢のみ法を悪用し、善良なる国法遵守(じゅんしゅ)者を屠(ほおむ)り、得意の悪辣(あくらつ)手段を以って国家の上層に現われ、世を毒し、国民の自由を奪い、時としては国を売る逆賊行為を敢(あえ)て為す者が続出するに至る。現に欧洲諸国には種々なる形となって現われつゝあり。

 


然し之を対岸視することは出来ぬ。この儘(まま)進む時は自国にも亦(また)斯(かく)の如き不祥事(ふしょうじ)無しとは云い難し。故に人は人を以(もっ)て治め、已(や)むを得ざる法は、人の自由を奪うための法ならしめず、只(ただ)道に帰らしむべき法であらねばならぬ。


現在、我国の経済界を見るに、今日まで資本主義経済により、明治初年より僅か七十余年間にして、東洋の一小国が、世界最大強国の裡(うち)に伍するに至りし事は、未だ世に前例なき異常の発展である。


これは決して人為的努力のみに依(よ)るに非ず、天の時と地の利によること大なるも、特に資本主義自由経済の偉大なる力によることは、何人も否定出来ぬ事実である。


然し自由経済必ずしも、全面に亘って完全であるとは云えぬ。其の完全ならざるところに向かって我が経済界は非常な力を以って進出が出来、斯の如く発展を為し得たのであるから、其の欠点は我国にとっては必ずしも悲観材料にならぬのである。


然るに其の一部分の欠点を除かんとして、根本的改革を為すには深慮(しんりょ)を重ね、後(のち)着手せねばならぬ。目下のところ欧米諸国を見るに経済的技術に於いては我国の及ばざる国にして尚、新規なる良策を見出(い)だし得ざるに先だち、我国は大した経済的失陥なくして一大改革に着手せし其の勇気は、未だ世界に前例を見ざる所である。


然しその勇気は真の勇気にあらず。何となれば達人は当然帰結すべき所に向かって前進するものであるから何等そこに違算を生ぜず、当然為さざる可からざることを為すにとどまるのである。


然るに落着く先を見極めぬのみか、方向も立たずして出発する勇気は、勇気なるも匹夫の勇に陥るものである。現今西洋には露国を始め独伊の如く、統制経済とか国家社会主義とか、色々変わった制度があるが孰(いず)れも経済的大患に陥り、已むを得ざる非常手段である。薬や手術と云うものは、病人にのみ必要である。其の病人に用い快癒するを見て、健康なる者に手術を施し、大患に陥らしめてはならぬ。一度大患に陥らしめて後、回復せしむべく施療(せりょう)することは非常に困難である。


その困難なる国家の大手術をなし得る者は、今日迄の自由経済をより良く改革し得られる筈(はず)である。要は自由経済に非ず、統制経済に非ず、国家全体主義にも非ず、只(ただ)為政者の技倆と誠意に俟(ま)つのみである。米屋をして損する者が、綿屋をして儲(もうか)るとは限らない。米屋をして儲る者が綿屋をして儲るのが常識である。


 為にせんが為の改革ほど、国民にとって此の上の迷惑はなし。真に改革すべきは皇道経済あるのみにて、現在世界に行われつゝある経済原理は孰(いず)れも完全なるものなく、その形式に趨(はし)り、制度を更(か)えることは、膝行(いざり)を追出して盲者が這入(はい)り、又盲者を追出して唖(あ)者に代わるに過ぎぬ。


其の実例は、前大戦に統制を徹底せし独逸は大敗し、今又苦境に陥りつゝある。又露国は野獣に等しく、殺戮(さつりく)に殺戮を重ね、人道上許すべからざる猛悪振を発揮して居ることは万人の等しく熟知せるところである。かゝる変則なる統制を模倣してはならぬ。斯(かく)の如く人為的に急造したるものは、外見よく見ゆるも、内面に生命なく、造花に等しくして結実しないのである。


今日迄の自由経済は不合理の如く見ゆるも、永年に亘(わた)り、必要に迫られ、自然に発達したるがため、丁度(ちょうど)谷川に水放てる如く、寸分の隙間なく進展しつゝあるのである。一見不合理の如く見ゆるところを、人為的に改革することは、水なき谷川に氷塊(ひょうかい)を移すが如く、すらすらと進行は出来得ないのである。故に自然道即ち、皇道に復帰せしむべく、統制を加える以外、小策を弄(ろう)してはならぬ。


故に統制するには、自然に順応せしむること、自然に順応せしむることは、各自の機能を充分発揮せしめ、よりよき生活に入(はい)らしむることが最高の目的であらねばならぬ。そこに真の自由があるのである。 


然るに社会形態をよくせんがため、人の真の自由を奪うことは、番犬を飼うに人肉を以ってするが如きものである。又自然道を無視せるところの自由は、放縦となり綜合的見地よりすれば、自縄自縛(じじょうじばく)に他ならぬ。前記の如く前独逸の敗因、今又露独の内患に陥らんとしつゝあるを思う時、我が統制も深慮熟考の上最善の策を樹てられ度きものである。


人と云うものは、特に我が国民は、天災地変にも乱れず、東京の震災の如く益々団結し、性善を発揮し、そこに初めて『神国たる神意』が現われるのである。


事小なりと雖(いえど)も人為的に禍(わざわい)を蒙らしめたる時は不平反感の爆発せずと云い難し。露の如く、内に強制圧迫しつつ外部に当たることは、火薬を抱いて消火に向かうが如き結果となる恐れあり。


先(ま)づ統制するには、国民は国家の細胞であるから、五体たる国家を健全たらしむ可く、全身公平、平等に血液を循環せしむると同時に、分相応の活動を為さしむ可(べ)く統制あり度きものである。


一国も一身の如く、血液循環不順にして均衡を失いたるとき、国家の恐る可き病源が生ずることになる。


 人は大変賢い様(よう)に見ゆるが、案外役に立たぬ場合がある。如何となれば、自分で経験した範囲と、肉眼で見える表面の皮の、半面の皮表しか見えぬ。その見えた心算(つもり)の皮表が、又至って頼りないのである。此の世で、一番永く統御して来た我が五体の病さえ、皮一枚の中を知ることが出来ぬ眼を以って、未だ世に曽(かつ)てなき、一大動揺期に遭遇(そうぐう)せる国家の大患を、大手術せんとして過去の学問に頼ることは、ちょうど酒豪が酒の味を記載せる本を、自ら味いたる経験なき者が見て、強制的に国民に強いるが如き結果となる。


人は体質により一杯の酒で酔う者と、斗酒なお辞せざる者もあり、又好むと好まざる者もあり、又良薬とも毒薬ともなる。其の時と、場所と、環境と、過去の関係で何(いず)れも国状が異なれるにも拘わらず、自国の病源を観破せずして、他人に施したる大手術を見て、自ら鈍刀を以って切断手術を為すことは、薄氷の上で小児を乱舞せしむるより危きこと百倍、病菌はその不手際なるところに指して、旱(ひ)割れせし大地に水を投ずるが如く中まで浸入し、除去することが困難となる。


現在の如く世界的非常時には、物価の高低は人智を以って予測し難き今日、人為的に価格を制定する時、急激なる世界的騰貴(とおき)を生ずれば、我が国内はそれに追随(ついずい)し得ざるため、たちどころに、内地外商の手に依り、海外へ総(あら)ゆる物資は流出し去ることは明らかである。 


而して再び輸入せんとする時は、より高価なものを買わねばならぬ結果となる恐れあり。 今日にして既に必需品各種が欠乏を来たしつゝあることは、其の影響によること尠(すくな)からず。輸出は、物を金銭に替えることを目的とすることは平時の策で、此の非常戦時状態にある時は、国内により多く物資を充実すべく策を講(こう)ず可きである。


それは対外のみに限らず、国内に於いても金銭を目標に統制するよりも、国内の全機能を発揮せしめ、より多く物資を産出せしむることが、国富のもとである。 


今日にして各自は生活しつつある。この上の働きは、理論抜きの利益を生ずるのである。故に国家は全国民を充分活動し得べく指揮すべきである。 活動せしむるには、価格の統制も必要であるが、働くところに利益を生ぜしむることが、より必要である。


如何に生産を奨励(しょうれい)するとも、利潤(りじゅん)なきところに生産はない。最近経済界は全面に亘って、不安情態が刻一刻と深刻化して来た。その原因は、勿論戦時のため非常なる物資の消耗(しょうもう)と手不足による原因大なるも、他に物価統制が、重大原因をなして居ることを見逃(みのが)すことは出来ぬ。自然に生ずる物価の高低は一見、不自然の如く見ゆるも徹見する時、その中に自然的に、統制されたる合理的価格が生ずるのであることを知らねばならぬ。


一体、物の価格なるものは、必要に応じて生ずるものである。故により必要なる物の不足する時、その需給の程度に応じ、充(みた)し得るところまで自然騰貴(とおき)するに従い、其の利益のあるところに自然生産力を集中し、程度以上生産過剰する時、需要家の必要程度まで下落し、自動的に調和し得られるのである。


故に、より必要なる物の不足するところに、騰貴あるは当然である。故に自然に生ずる相場は、材料の多少、手間の過不足、場所の遠近、内外情勢等一切の均衡(きんこう)を人為的以上に合理化し得られるのである。


故に物価の騰貴は生産を増進し、消費を節約せしむる結果ともなるのである。然るに人為的に、程度以上価格を抑圧(よくあつ)し又は買占め、売惜(うりおし)み等をなすことは、一少部分に囚(とら)われし小策にして、大局を謬(あやま)ること甚し。要は物の高低に非(あら)ず、よりよき物を、より多く、作り出すべく統制することが必要である。


今の経済は、個人単位の組織故、より多く産出せしむることは、より多くの利益を得せしむる可きである。一個人の破産することは、一国の損失である。一個人の富むことは、一国の富むことである。富める者は富まざる者より納税の負担力(ふたんりょく)が多いのである。如何に物価を抑制し得ても、生産が萎縮(いしゅく)しては根本目的に反することになる。非常時なるが故に、人為的統制に従えと云うことは、非常時なるが故に、水の川上に流れよと云うに異ならず。価格統制のため、外国との均衡を失い、尚輸出業者に対する特典を与(あた)える時は、純利を無視し、特典にのみ迷い、国家の損失を顧(かえり)みず、投売的輸出者の続出す恐れあり。

 

斯(かく)の如きは、対手国にとっては有利なるも、国民は刻々、氷の幽谷に沈まざるを得ない。戦争は必ず武器丈けでは勝てぬ。昔から腹が減っては戦(いくさ)にならぬ。

 

戦争は手足だけが戦って、背中は何の働きもせぬのではない。国内の民は背中の様な役割をして居るのである。背中に大きな腫物(はれもの)が出来れば手足の自由は利(き)かぬ。平和産業も無為徒食(としょく)せしむるより、働かせることが、国家の利益である。平和産業を窮(きゅう)せしめる前に、活路を与えしむべきである。


国家のために、国民を有利に導くのが、為政者(いせいしゃ)の役目である。また大なる者より、小なる者を善導する事が大切である。小なる者となって働く時の、大なる者の働きは最も強し。


川上濁れば下亦(また)濁る。其の濁りたる者を罪すれば国亡ぶ。心善なりと雖(いえど)も不明は悪に勝(ま)さる禍を生ず。


智有りと雖も、心正しからざれば、道隠れ、禍(わざわい)衆に及ぶ。自ら正しからずして、人を正さんとする事は、消火に油を用うるが如し。 


奪う所に隠れ、与うる所に現わる。民の為に図(はか)る時、国富む。国を思い民を思わざる者は、氷の中に火を求むるが如し。


大塚寛一先生