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ねずさんのブログよりの転載です。

部下たち二千人の命を守った警察官・・・廣枝音右衛門物語 - ねずさんのひとりごと (nezu3344.com)

 

二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きました。音右衛門は、拳銃をみずからの頭に向けると、頭部を2発撃って、自決されました。享年40才でした。

 

 

いま米国では、州によっては1万円以下の窃盗や万引きは、捕まっても3度までは罪にならないのだそうです。
これによって特に小規模小売店は次々に廃業の憂き目に遭っていると聞きます。
泥棒が肯定される社会って、いかがなものかと思います。
ところがそんな泥棒を捕まえる警察官さえも、警察は不要だとして警察官への給料の支払いを拒否しようという条例案が再々米国諸州で出されていると聞きます。

そんな米国では、雑踏の中を歩くと互いに肩がぶつかるのが普通で、だから米国から日本に観光でやってくると、雑踏でも肩がぶつかることがないので、
「日本人の体には、人とぶつからないセンサーがついているに違いない!」なんて思ったりもするのだそうです。

その日本でも、戦後は警察官のことをマッポとかポリ公とか言って、やたらに警察官を敵視するような、おかしな風潮が蔓延しています。
もちろん刑事ドラマなどで、真面目な警察官は相変わらず人気だし、警察24時のようなドキュメンタリーも高視聴率です。
けれど、その一方で、私達の生活や治安を守ってくれていて、そのために日々訓練を欠かさない警察官を、なぜか頭から敵視する人たちが日本にもいるわけです。
果たして日本が米国化するという方向性は、日本という社会にどこまで良い影響を与えるのか。
私達は国まもりのために、そういうことを真剣に考えなければならない時期に来ているのではないかと思います。

警察といえば、台湾は、いまでも戦前戦中までの日本の文化を色濃く保っているところがある国(あえて”国”といいます)ですが、なかでも台湾の高砂族のあいだでは、警察官は、いまでも地域の守り神のようにして慕われています。
これは、もともと明治に現行の警察制度が始まったとき、警察官になったのが旧士族(武士)であった人たちであったことに加え、日本ではもともと、警察官がエリート中のエリートとされていたことに起因します。

高級警察官僚は別ですが、現場の警察官は、まさに元武士でしたから、強いし、優しいし、筋道を通すし、不正不義を一切許さないし、教養があるし、子どもたちにやさしい人でもありました。
だから派出所に住み込みで勤務する駐在さんは、町や村で、ある意味一番信頼される存在であったのです。

そんな警察官が、台湾にも置かれましたから、台湾では戦前は、警官になるのは、現代の東大に合格するよりむずかしいとさえ言われていました。
台湾における警察官は、名誉ある職業であり、人々から尊敬される人でした。
そういう社会こそ、健全な社会であるといえると思います。

さて、その台湾で、いまでも「神」として祀られている日本人警察官がいます。
名を「廣枝音右衛門(広枝音右衛門)」といいます。

廣枝音右衛門は、明治38年に神奈川県小田原市で生まれ、逗子の開成中学、日本大学予科へと進み、昭和3年、23歳のときに、佐倉歩兵第57連隊に入隊して陸軍軍曹になりました。
そして任期満了で除隊したあと、湯河原の小学校教員などを勤め、昭和5年、台湾にわたって、なんと当時、競争率100倍という超難関の台湾総督府の巡査を受験して合格、台湾警察の巡査となり、台湾・新竹州勤務となりました。

この時代の台湾警察は、治安活動だけでなく、台湾の人々を「内地の日本人と同等の教育、文化水準に引き上げる」という行政上の役割も担っていました。

昭和17年5月、廣枝音右衛門は、警部に昇進し、新竹州竹南の郡政主任となり、大東亜戦争の戦線拡大にともなって台湾で結成された総勢二千名におよぶ海軍巡査隊・総指揮官を拝命しました。
海軍巡査隊は、昭和18年12月8日、高雄港から特務艦「武昌丸」に乗り込んで、フィリピンのマニラに向かいました。

マニラでは厳しい訓練の日々が続きました。
音右衛門は、隊長として常に部下の先頭に立厳しい訓練を率先して受け、部下たちひとりひとりを励まし続けました。

そんな廣枝隊長を部下たちは、とても慕いました。
なにせ人柄が良い。真面目。思いやりがある。

巡査隊の任務は、物資の運搬、補給などの後方支援でした。
戦況は刻々と悪化し、ついに昭和20年2月、マニラ市近郊に米軍が上陸してきました。
米軍と戦闘すること3週間、ついに弾薬も尽き、玉砕やむなしの情況に至りました。

海軍巡査隊にも、フィリピン派遣軍司令部から棒地雷が支給されました。
それは、「この棒地雷を手に敵戦車に体当たりし、全員玉砕せよ」という意味の支給でした。

音右衛門にも家族がいました。
台湾に、妻と3人の子たちがいました。

音右衛門は苦慮したうえで、巡査隊の小隊長を務めていた劉維添(りゅういてん)を伴って、米軍にひそかに交渉を行いました。

翌日、整列した二千人の部下たちを前に、言いました。

「諸君。
 諸君らは、よく国のために戦ってきてくれた。
 しかし君たちは、軍の命令通り犬死することはない。
 なぜなら祖国台湾に、
 諸君らの帰りを心から願って待っている家族がいるからだ。
 私は日本人だ。
 だから責任はすべて私がとる。
 全員、米軍の捕虜になろうとも生きて帰ってくれ」

二千人の部下たちは、一同、言葉もなくすすり泣きました。
音右衛門の気持ちが痛いほどわかったからです。

音右衛門は、部下たちへの訓示のあと、ひとりで壕に入りました。
そして拳銃をみずからの頭に向けると、頭部を2発撃って、自決されました。
昭和20年2月23日午後3時頃のことです。
廣枝音右衛門、享年40才でした。

音右衛門の決断によって、海軍巡査隊の台湾青年ら二千名は、生きて故郷の台湾に帰還することができました。
この恩を忘れない台湾巡査隊の面々は、戦後、台湾新竹州警友会をつくって、台湾仏教の聖地である獅子頭山にある権化堂に、廣枝音右衛門隊長を祀りました。

さらに廣枝隊長から受けた恩義を末永く語り継ぐべく、茨城県取手市の弘経寺に広枝隊長の「顕彰碑」を寄進し健立しています。

 

弘経寺 広枝隊長 顕彰碑

 

以下は、その「顕彰碑」に彫られた文です。

「泰然自若として所持の拳銃を放ちて自決す
 時に2月24日なり
 その最後たるよく凡人のなしえざるところ。

 せんなるかな戦後台湾は外国となりたるも
 この義挙により生還するを得た数百の部下達は

 吾等の今日あるは、
 あのとき、隊長の殺身成仁の義挙にありたればこそと

 よろしく称讃し、この大恩は孫々に至るも忘却することなく
 報恩感謝の誠を捧げて慰霊せんと

 昭和51年9月26日隊長ゆかりの地、
 霊峰獅子頭山権化堂にてその御霊を祀り、
 盛大なる英魂安置式を行う。

 この事を知り得て吾等日本在住の警友痛く感動し、
 相謀りて故人の偉大なる義挙を永遠に語り伝え
 その遺徳を顕彰せんとしてこの碑を健立す

元台湾新竹州警友会」

昭和58年5月、小隊長をつとめた劉維添(りゅういてん)氏は、かつての隊長の自決の地であるフィリピンを訪れました。
そこで彼は、隊長終焉の地の土を集めると、茨城県取手市に住む、ふみ未亡人に、その土を手渡しました。
(ふみさん平成元年2月、76歳で永眠)
 
こうして廣枝音右衛門は、獅頭山の権化堂に神様として祭られ、鬼籍の人となったふみ夫人も、広枝隊長の位牌とともに、かつての部下だった新竹警友会の人たちの手によって台湾・権化堂に祭られました。

自らの命に代えて、二千人の部下の命を守った廣枝音右衛門。
こうした歴史を、私たち日本人は、これからもしっかりと語り継いでいきたいと思います。

 

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