『大塚寛一先生御道話

宇宙には厳然とした自然の法則が実在する!人の歩むべき誠の道がそこにある一国一家の興亡はその中心人物により決まる!

★何事も人を得ないと目的通り行かない!


世の中のことは何事によらず、優れた人が先頭に立って多くの人を指導してゆく時、初めて理想社会が出来上がる。いかに法律を、微に入り細にわたり作ってみても、人物の選択を誤ったなら用をなさない。いま日本の現状を見る時、人物の正しい選択をしないで制度・組織を作ることばかりに意を用い、それも多数決によって決めようとしている。これほど危険なことはない。一体、物事を為するには、今日にして百年の計を立て、戦いをするのにも、居ながらにして千里の外に勝敗を決すべきである。勝算なしに戦いをはじめることは、今度の大東亜戦争が、そのよい例である。鉄砲を撃ち、弓を射るにしても、引き金を引き、矢が弦を離れる瞬間に、もうすでに当たる当たらないは決まっている。いかに名刀の正宗でも、それを使う人物によって、その真価が発揮される。性能のよい自動車や飛行機にしても、それに適した人物が乗って技能を発揮する時、初めて所期の目的が達成される!また法律にしても、いかに巧妙に微細に作ってみても、運用する人の如何に関わる。日本の六法全書などは大変な分量であるが、日本国民で、その内容を知っているのはほとんどいないだろう。しかも朝令暮改、次々に作り出しては、国民の知らない間に法律が変わってしまっている。大岡越前守のように裁判官にその人を得れば、法文に捉われないで公平にして何人(なんぴと)も満足できるような判決を下すことができる。それが今日のように水も漏らさぬほどに法律を細かく作ってみても、かえってその法文のために、悪人と知りつつ罰することができなくなるような無駄さえ生じている例がある。要するに現代は、形式ばかりに捉われて、人間社会でありながら「人物」の選択を忘れてしまっているのだ。


★無能な人間を幾ら集めてもゼロはゼロだ!

選挙に例を見ても、選挙民が候補者の人物を知って投票する場合がどのくらいあるのだろうか。ほとんどが候補者を知らないで投票所に行って、皆の顔色を見たり、その場の空気を見て判断したり、写真を見て選んだりしている。また甚だしいのは、候補者の人物は二の次で、買収や縁故によっていかがわしい候補者に入れる人も数多い。何たることであろう。頭数を揃えさえすれば足れりとしている。けれど零(ゼロ)はいくら集めてもゼロだ。たとえ一億集めてもゼロだ。本当に優秀な人材を選択するためなら、その人の善悪優劣を判断し得る人によってのみ投票がなされねばならない。普通の者は、今日のことすら今日分かっていない。自分のやっていることが分からないから、その日暮らしの路傍の易者などに占ってもらっている状態である。


■真の教育は知識と共に人格の完成にある!


教育にしても、立派な人物をつくるような教育をせずして、知恵と知識だけの詰め込みをしている。どれほど色々のことが分かっても、人間自体が完成しないことには、正しい「人の道」を通ることは不可能だ。学校の教育者には皆から尊敬される完成した立派な人物を集めて、知識と共に、人格の感化による教育が並行して、初めて真の教育ができる。明治維新前に山口県の寒村に吉田松陰という一青年が出て立ち上がり、松下村塾という藁葺きの貧しい家に近所の子供を集めて、至誠を以て教育した。それが素晴らしい思想と人物をつくり上げ、かの明治維新の大業を完成せしめた。現今は大きな敷地に五階、六階の立派な建物を建て、たくさんの先生を集め、莫大な教育費をかけて神経衰弱になるほど一生懸命勉強させながら、「人間道」を少しも教えていない。国家観念、民族の誇りを持たず、人間に最も大切な、「人格の完成」を忘れてしまっている。すなわち、義理・人情・道徳をわきまえて、人に迷惑をかけず、善悪を明らかにして、曲がったことは自分もやらないが、人に押しつけられても頑として受けつけない。腹がしっかりして、自己の正しい意志を貫徹してゆく。しかもそれが社会と調和がとれて、共存共栄が果たせるような人物でなければ人格者とは言えない。苦しい今日の日本の状態では、外部から圧迫を受け、不幸にも敵が侵入して来たとすれば、まるっきり支離滅裂、敵を待たずして互いに争い合い、目もあてられない悲惨な状態に陥ることは、火を見るよりも明らかである。何と言っても教育の根本は、まだ完成していない柔らかい間に人物を養成して、立派な人格を築き上げることである。


 ★基礎教育に重点を置き全体を簡素化せよ!


もう少し具体的に言うなら、社会科とかいろんな細かい科目を減らすことだ。大体、「読み・書き・そろばん」が出来れば結構だ。読み書きの中に倫理道徳とか忠孝仁義とかを織り込んで、ただ読むだけでなく常に書いて習えさせれば、その人の身に付いて自然の性格に変わる。学校を出て数年たてば忘れてしまって役に立たないようなものは捨ててしまって、まず人物の基本教育を中心にして、それが出来上がったら、それからは各自、自分の目的とする職業の専門学を身に付けてゆくようにすればよい。そうすると子供たちの負担がいっぺんに軽減して、無邪気にのびのびとした少年時代を送れるようになり、すくすくと大きく育つ。今は幼稚園に入るのまで試験をされている。まるで監獄に入ったように監視され、酷使されている子供を多く見受ける。このようなことは、青少年の力を消耗して、大人物になる天来の素質さえも平凡化してしまう。


 ■真の指導者を得ればゼロが無限大になる


日本でも戦国時代から明治初年までのように、学校教育を受けないで野生で伸びた時代の方が、今日の学校教育を受けた人よりも、線の太い腹のすわった大人物が多い。自然生えの中には神代杉があるが、人工の植木屋なんかにかかった人材は、盆栽流のようになって、棟木にもならず、柱にもならず、薪にも割れないようなものが多く出る恐れがある。繰り返して言うなれば、何事をするにしてもまず適材の人物を適所・要所に置いて、初めて法が生きて働く。主権在民などということは余程考えなければならない。零(ゼロ)はいくら寄せ集めてもゼロだ。ところが、その上に優れた人物が一人出てその一つの正しい指導原理の尻にゼロをつけてゆけば、ゼロによって無限大になる。今はただゼロばかり集めて数を増やそうとしているが、それは石鹸の泡をつかもうとしているようなものである。

大塚寛一先生

(御道話口述筆記)禁転載