日之本文書総覧 日高見国と安倍王国と安東王国 第5169回
桓武王朝と征夷大将軍坂上田村麻呂は謀略作戦に転じた
その後も敗北を重ねた朝廷軍は謀略作戦に転じた。『日之本文書』「北鑑 第十二巻 十九」の阿弖流為の記事も、田村麻呂による謀略について描いている。寛政六年九月十三日の秋田孝季の署名がある。
「丑寅日本国の五王に通称アトロイという王がいる。大公墓阿弖流為または阿黒王、悪路王と倭史は記している。
大和朝廷の朝議は、相謀(あいはか)って坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。すでに官軍は討伐行を羽州から鬼首(おにこうべ)峠を越え、日高見川において千三百三十六人の兵を殉死させ、阿弖流為軍は八十九人の殉死あるのみで、官軍は全ての兵糧を奪われた。よって田村麻呂は軍謀について和睦を先としていた。田村麻呂曰く。
日本将軍五王に朝議の趣旨を申す。互いに戦いの原因を作ることなく、和をもって東西の睦みを護ろうではないか」
これを裏付けるように田村麻呂によるしたたかな慰撫作戦、謀略作戦が実行されたのである。田村麻呂は仏法に公布を装って、武装移民を多賀城や胆沢柵に進駐させ、和睦と称して、阿弖流為を拉致し、胆沢から京都へ引き連れる策略を考えていたのである。
倭国史は、大和朝廷の「蝦夷征伐」が、田村麻呂によって大きな戦果をあげ、エミシは敗北したように記している。『日本記略』や『類聚国史』などには、延暦二十一(八〇二)年、「夷大墓公阿弖流為(えぞたものきみあてるい)、盤具公母禮(いわとものきみもれ)等、種類五百人を率いて降る」と田村麻呂から桓武天皇へ報告されている。これは「阿弖流為、母礼の降伏」と一般にはとらえられているが、倭国史の記述をそのまま信じることは断じてできない。
はたして阿弖流為と母礼は本当に投降したのか。いや田村麻呂の「和睦」という謀略にかかってしまったのである。
阿弖流為は桓武王朝の謀略によって拉致、謀殺された
「北斗抄 第十三ノ六」は次のように述べている。阿弖流為軍の上洛(じょうらく 地方から京都へ出掛けていくこと)、阿弖流為軍の分断、阿弖流為、母礼の拉致、斬首、配下軍の殲滅という最悪の事態になってしまったのである。残念至極ではあるが、史実が述べられているだろう。
「安倍氏との滞在の約束の時間になって、田村麻呂は胆沢において、阿弖流為及び母礼と宴を催し、冠十二階の位をすすめれば、世に和睦ほど大事なことはないと、坂東の日本将軍安倍国東の許を得て、上洛した。万一の変を警戒して、警護のために阿弖流為配下の三百人、母礼配下二百八十六人を従えた。
時に延暦二十二年夏、上洛した。
田村麻呂は阿弖流為をまず河内の杜山(もりやま)に駐留させ、十日の間、美味なものを御馳走し、阿弖流為、母礼から信を得た。
宮中に参上するのに、警護をするのは礼儀に背くとされたので、警護の兵を解いて、杜山から京に入った。田村麻呂はともに神社仏寺を巡覧し、京に入って一宿する夜半に、倭国の防人は討物を挙げて阿弖流為及び母礼を捕縛し、京で生きさらし、倭人の見世物にした後、斬首したのである。同じ時期に追っ手三千を挙げて、河内の杜山に残した配下を不意に襲って皆殺しにしたのである」
日高見国は倭国との「三十八年戦争」に完勝した
ここで日高見国と倭国との「三十八年戦争」についてまとめてみよう。
倭国による本格的な「蝦夷征伐」と日高見国、安倍王国による朝廷軍への抵抗は、八世紀初頭からはじまっているが、大和朝廷に壊滅的な打撃を与えたのは八世紀後半である。「三十八年戦争」といわれるほど、長い厳しい戦争であった。それは宝亀五(七七四)年から弘仁二(八一一)年まで続いた戦いであった。倭国史はこの騒乱の原因について真実を語っていないが、それは大和朝廷の側からは、土地と資源を略奪する謀略戦争であったからである。日高見国、安倍王国の側からは、大和朝廷による侵攻・掃討・略奪・隷属政策に対する抵抗戦であった。
この時期に特徴的な争いは、大和朝廷から饗応され、姓や位を与えられ、倭国の統治に協力してきたとされる「俘囚長」(ふしゅうちょう)と呼ばれる人々が、倭国に公然と反抗しはじめたことである。「以夷征夷」(夷をもって夷を征する)の政策は薄氷を踏むような危うい政策でもあった。「御味方蝦夷」が反旗を翻したとき、それは手の内を知りつくした強力な敵が目の前に出現することであった。情報も武器も兵士も一気に相手方に引っ繰り返ってしまうことになる。
桓武天皇の延暦年間に、胆沢(現在の岩手県胆沢地方)エミシを中心に、五万人以上の朝廷軍を向こうに回して、互角以上に戦い、大勝利をあげた戦いは、日本列島でも最大の先住民抵抗戦争であった。この戦争を指導したのが、胆沢エミシの族長であり、日高見五王の一人、阿弖流為(アテルイ)であり、磐井エミシの族長であり、日高見五王の一人、母礼(モレ)であった。彼らは既述のように日高見国の種族連合、日高見五王連合の戦士を見事に組織し、神出鬼没のゲリラ戦によって、大和朝廷に大打撃を与えた。
「明和庚寅(かのえとら)七(一七七〇)年八月十日 作州浪人 磐城頼母」の署名のある「北鑑 第十一巻」は、その最後に、「ここに奥州日本国(日高見国)こそ、三十八年戦役に倭国軍を追放しける」と宣言している。まさにこれが事実なのである。
八〇三(延暦二二)年には参議の藤原緒嗣(おつぐ)が「軍事と造作の停止」を主張して、これが受け入れられた。武力による完全制圧は不可能という判断だったのである。「征夷」は予定通りには進まず、中止された。それほど大和朝廷は「征夷」のために疲弊しきっていたのである。
