辞世の句

弟子宛

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

家族宛

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」


人物年表

1830年(文政13年)
長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)の萩藩士・杉常道(百合之助・ゆりのすけ)の次男としてうまれる。

1834年(天保5年)
父の弟・山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となる。
翌年大助が死去したため、同じく父の弟の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受ける。

1840年(天保11年)
藩主・毛利慶親への御前講義を評価され重用される。

1853年(嘉永6年)
ペリーが浦賀に来航、師の佐久間象山と黒船を視察し、外国留学を決意。
弟子で同郷の金子重之輔と共に、長崎に寄港中のロシア軍艦に乗り込もうとするが失敗。

1584年(安政元年)
ペリーが日米和親条約締結の為再航した際、再び金子くんと二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号に乗り込み密航を願うも拒否られた。(ペリー暗殺を計画していたとする説もある)
その後、幕府にバレる前に自首し投獄される。

1855年(安政2年)
出獄を許されるが、杉家に幽閉処分となる。

1857年(安政4年)
叔父の玉木の私塾・松下村塾の名を引き継ぎ、杉家敷地内に松下村塾を開く。
この松下村塾で久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などといった多くの有能な人物を育てた。
そしてこの松下村塾は「生きた学問」と言われ、師匠と弟子が別け隔てなく意見を交わし、登山や水泳なども行ったという(今でいう遠足!?笑)

1858年(安政5年)
幕府が朝廷のお許しなく日米修好通商条約を締結した事に激怒し、老中・間部詮勝の暗殺を計画するが弟子達に反対され断念。
さらに倒幕を主張し危険と判断され再び投獄される。