皆さんこんにちは❗人類の大救世主大塚寛一先生1936年発刊「暗夜の光明」の抜粋です。この秘蔵書は現在、国会図書館にPDFだけが存在、80年間、人類の誰の目にも触れることなく眠っていました。ロニが、ある不思議なルートで情報を入手し、コピーを入手して友人と写経し80年ぶりに、人類に復刻、発信させていただきました。人類のアセンションの鍵、「神格化する」、覚醒する秘密が書かれています。心の眼で拝読されてくださいませ

神軍リクルーターロニサランガヤ


 

 

暗夜の光明
(昭和11年 発行)
発行兼編輯および印刷人 大塚霊妙
発行所 霊 源 閣          

★巻頭言

□□夜)の人類は文化の財寳を滿載して□□海に乗り出だせしが進むにしたがい風浪益々激し。人は将に山頂の一滴にして神の試練の寸前なり。此の一歩、此の一瞬、右か左か善か悪か、苦か楽か熟読玩味されたし。鍋中の鰌(どじょう)は豆腐、○敎に寄るも鍋を經(へ)て業火(ごうか)に煮(に)る。自己安心は網(あみ)にかゝれる蛤(はまぐり)の如(ごと)し 、
氣付(きづき)たる時(とき)は札付(ふだつき)となる。
印度(いんど)、ユダヤは何(なに)を物語(ものがた)りつゝありや。
自己を超越(ちょうえつ)したる眞(しん)の自己にかゑれ、而して時流(じりゅう)を觀破(かんぱ)して善所(ぜんしょ)せざれば絶對(ぜったい)安住(あんじゅう)の地(ち)なし。

師(し)は生れ乍ら(うまれながら)異常な眼識力(がんしきりょく)の持主でありました 普通人(ふつうじん)と異なる點(てん)を擧(あげ)ますと 生れ出てより今日に至るまで不思議の連續(れんぞく)であります 其の一部を申しますと 今より三十餘年前(さんじゅうよねんまえ)未だ十二歳の頃 四國(しこく)の草深い片田舎(かたいなか)に居て 已(すで)に世界の大勢を觀破(かんぱ)し 又自己を始め姉弟の運命に至るまで豫言(よげん)しました事が今日に至り全部的中(ぜんぶてきちゅう)してまいりました、其(そ)の當時(とうじ)何人(なんぴと)も眼を丸くし疑見(ぎけん)するのみでしたが今日に至て(いたって)は疑(うたがい)の餘地(よち)はありません、其の豫言の一端を申(もうし)ますと 世界の一大勢力の移動期に遭遇(そうぐう)して來た、それは今まで地上を征伏(せいふく)して居た白人の勢力も西洋文化の破潰(はかい)すると共に暫時(ぜんじ)東進(とうしん)なし 近く亞細亞(あじあ)に移り、西洋文化と東洋文化が融和した理想文化が亞細亞人(あじあじん)の手により建設さるゝ時の近づけるを豫言(よげん)し 滿洲(まんしゅう)方面に一大文化的中心が出來上り相前後(あいぜんご)して天啓(てんけい)により人類最大最高の救世主の出現なし、人類發生(はっせい)してより始(はじめ)ての平和なる理想社會(りそうしゃかい)を吾が國(わがくに)に建設なし 忽(たちま)ち周圍(しゅうい)に波汲(はきゅう)して地上は短期間に理想化さるゝも 其(そ)の救世主出る事の後(おく)るゝ時は世(よ)の始(はじめ)より 未だ且て(いまだかつて)經驗(けいけん)せざる苦(く)るしみに 逢事(あうこと) 又(また)救世主出るとも信し目覚ざる(しんじめざめざる)時は  遠から(とおからず)雌(めし)べなき花の西に開く事を象知(しょうち)し居(い)たのであります、之(これ)十二歳(じゅうにさい)の時(とき)同年輩(どうねんぱい)の少年(しょうねん)を集(あつ)めて語(かた)り續(つづ)けて居(い)た 實話(じつわ)であります。其(そ)の當時(とうじ)都會(とかい)ならる田舎に居て何の刺戟(しげき)なき中に育ちつゝ自然の動きのみを見て種々(しゅじゅ)の物を發明發見(はつめいはっけん)なし 今日一般に必需品又は世間の常識となつて居るものも數々(かずかず)あります。かゝる豫言の的中は何千頁(なんぜんぺーじ)を要するもつきなひのであります。十二歳と云(いえ)ば未(いま)だ乳(ちち)の香(か)も失(う)せぬ無邪氣(むじゃき)なる可(べ)きに師は話して云われるに吾(わ)しわ實業家(じつぎょうか)となるには北海に行き漁業をなすか南米に行き新天地の開拓するもよいが而(しか)し自分は金錢を超越した人間終局の目的に向(むか)ひ一大苦業(いちだいくぎょう)すべく進む外(ほか)何物も眼中に存(そん)しないと常に大言壮語(たいげんそうご)して居たのです。 其(そ)の當時(とうじ) 親兄弟と謂(い)へど此(こ)の言(げん)を聞き不思議の空想(くうそう)とより思はない者はなかつたでしょう。そして師(し)は責任ある長男に生(うま)れましたが 草深い田舎ではどふしてもじっとして居(い)られず再三再四(さいさんさいし)父に願(ねが)ふも聞入(ききい)れられず、自(みずから)も又(また)推(おさ)へんとしても耳元(みみもと)に囁(ささや)く聲(こえ)の日增(ひまし)高まるにつれ遂(つい)に決心して 十二歳の十一月三日霙(みぞれ)降る朝(あさ)漂然(ひょうぜん)孤獨(こどく)の旅に出たのが苦業の始(はじまり)であります、それより已(すで)に三十幾年間(さんじゅういくねんかん)支那朝鮮(しなちょうせん)を始(はじめ)内地(ないち)は勿論(もちろん)深山幽谷(しんざんゆうこく)に別け入り苦業の蹟(あと)は全く常人のなし得ざるのみか象想(そうぞう)だに及はさる(およばざる)處(ところ)にして其(そ)の間(かん)死生の堺(さかい)に立つ事(こと)数十囘(すうじゅっかい)其(その)つど不思議の靈人(れいじん)は常(つね)に師(し)を守り今日あるを得たのであります。追々(おいおい)苦業の道筋を發表するに連れ其の當時の人の瞳の奥深く不思議の人として殘(のこ)つて居る記臆(きおく)が又(また)再び現實(げんじつ)となつて相見(あいみ)る事が近き日にある事と思われます、此の三十餘年間を經(へ)たる今日(こんにち)師は何を思ひ何を語らんとして居るのでありましょふか、こゝに記載してある事は千尋(せんじん/ちひろ)の大海(たいかい)に油滴(ゆてき)を投したる(とうじたる)銀幕(ぎんまく)にひとしいものであります。師(し)は此(こ)の永(なが)き苦業によつて磨(み)がゝれたる心鏡(しんきょう)に 社會状勢が如何(いか)に反映し なにをなさんと考へて居るでありましょうか、否(いな)已(すで)に師は腦裏(のうり)に出來上りし社會構圖(しゃかいこうず)を將(まさ)にコンパスと定器(じょうぎ)を持つて天空(てんくう)に畫書(えが)き出(いだ)さんとして居るのであります。之(これ)を略(りゃく)せば 一點(いってん)に始まつて一點に納まるも 擴(ひろ)げば三界(さんがい)を包みて尚(な)ほ餘(あま)す處(ところ)なき深遠微妙(しんえんびみょう)不可思議(ふかしぎ)の法(ほう)であつて 一旦(いったん)口を開けは(ひらけば)幾世(いくせ)語るも黄河(こうが)の水の盡(つき)ざる如く 又(また)聞(きか)ざるは大河(たいが)の傾斜(けいしゃ)急流(きゅうりゅう)なるエネルギーを電化(でんか)せざるが如く 再び得(え)る事が出來(でき)ないのであります。
それは師の念頭(ねんとう)なにものもなく たゞ來(きた)る物の冩(うつ)る姿を讀(よむ)が故(ゆえ)同一の事を再び語り出さないのであります、それで居て超化學的(ちょうかがくてき)又(また)超數理的(ちょうすうりてき)な數理化學(すうりかがく)なのであります、其の中に最も深き神祕(しんぴ)を語(かた)るものであります。師にかわつて無學(むがく)なる私(わたし)が代筆して發行(はっこう)しました故(ゆえ)意味前後不徹底の點(てん)多く御座さいましよふが 御考讀(ごこうどく)願へれは(ねがえれば)幸(さいわい)に存(ぞん)じます。

筆 者  大 塚 靈 妙(おおつか れいみょう)

■:大日の本教とは如何なる理由で銘名されたのでありましょうか:

それは相当難しい説明を要しますが、極簡単に申しますと、毎日我々を照らしてくれて、何人もが見て居りますのが、お日様でありますが、お日様は物の表面のみしか照らしていないから、色を去って物を見る事が出来ませんが、他に人間の知る事の出来ない種々の、光りがその中にはたくさん存在しているのです。最近になって発見されましたX光線とか、ラジウムとかいうのがそのほんの一部分であります。ここに申します大日は、吾々の住んでいる太陽系の世界ばかりでなく、全宇宙の隅々まで照らしつくして、X光線の様に物の中は無論の事、その他一切のものの表裏の別なく、時間空間を超越して、照らし抜く、その光りの本が大日なのであります。言い換えれば一大靈光の源なのであります。これだけ話したのでは解りますまいが、皆さんが見て居られる世界は、お日様が照らしてくれてその反射による影法師の様なもので、ほんとうの物の姿ではありません。このように申しますと、益々分からなくなって来ましょうが、これは色合いばかりでなく、ものの軽重、また、軟らかい堅いという様な事も決して決定的なものではありません。それがこの大日(大靈光)が照らして見る時に、吾々にも初めて見る事が出来るのであります。今まで堅いと思い込んでいたものが存外軟らかいものであったり、また、通れないと思っていた所が楽に通れたりします。万事が持って行きよう次第で、自由になる事が解ります。そこに皆さんの見た事のない別の世界が、あるのであります。簡単な一例を申しますと、硝子は、空気を遮りますが、太陽は楽に透ります。また引力は一切のものを通じて働きます。また電気は空気中よりも金の中が通りよいのであります。この様に組み合わせ方によって、決して物は一定しません。その本体を照らすのが大日です。夜分に物を掴みますと、敵か味方か、軟鉄だか鋼鉄だが、金か鉛か手に感じても、見別が難しい様に、お月様の光では、表面の色のみは見えても、ほんとうのものを見る事が出来ません。お日様の光のみを便りにして、ものを見ていますと、味方の様に頼りにしていた人が反対になったり、儲けようと思った事に損したり、また、頼りにした子が先立ったり、良くなるべく造ったもののために苦しんだりすることが、終始出来てきます。それは表面の色合いに迷って、本物を知らないから起こるのであります。物の本体が解れば、その迷いが醒めて、苦しみが去り喜びの日送りが出来ます。大日の照る世界に出ますと、出来る事と出来ない事が、直ぐ誰にも解り、一挙一動無駄がなく、望み以上の効果が生じますが、大日の照らさない間は、昇れない天に昇ろうとして苦労し、そのうちに結構な道を踏み外して、取返しのつかぬ失態を生じます。色相にとらわれている人は、丁度、砂糖を持って、流れ川を塞いでいる様な事にもなります。若い人達が成功したいと焦って、日々為すべき事もせず、結果ばかり望んでいるのは、天を望んで足許の危険に気づかないのと同様であります。一挙一動精勤に働いても、自分がする事の本体を大日に照らして、よくみきわめないと、流れ川を埋めようとして、砂糖を投じている様な事にもなり、稼ぎを追い越す貧乏がそこから生れて来ます。治る病を自分で重くしてこの世を旅立たねばならないことにもなります。今までは一切を、固定して居るように思って、色相に捉われていた迷いの世界より、実体を照らす大日の世界に生まれ出でしめようとして、互いの心に永く眠れる霊眼を開くべく、明けの鐘を鳴らすのが、大日本教なのであります。

 
▲大 日 の 本 敎
十幾億(じゅういくおく)の我人類同胞(じんるいどうほう)よ。方向を轉(てん)じて一大靈光(いちだいれいこう)を仰ぎ見よ。
然らば卽刻(そっこく)理想境(天國淨土)は諸衆の足許(あしもと)に開かる。
此(こ)の一大靈光(いちだいれいこう)に反して立つ時は、永遠に陰(かげ)を追ふて眞實(しんじつ)を得(う)る事(こと)難(かた)し。我等(われら)人類は最早(もはや)人道(じんどう)を歩むべき時に非(あ)らず。眞に歩むべき道は此(こ)の眞(大靈光の照せる處の)道あるのみ重ねて申す、人なるが故に人の道を歩まんとする勿(なか)れ。萬有(ばんゆう)を一貫(いっかん)せる眞理(しんり)には、人と神との二途(にと)ある事なし。(大海の怒濤(どとう)遡卷(さかま)き萬波(ばんぱ)生ぜど水平線より出でて、水平線に復(か)へり、其(そ)の水平線に二線(にせん)なきが如し。)
大靈光(だいれいこう)は絶對(ぜったい)にして、光明(こうみょう)其(そ)のものなるが故(ゆえ)に、陰を宿さず。人は神(大靈光)と相對(そうたい)なるが故に人のみ常に陰(かげ)を伴(ともな)ふ。
故に人道(じんどう)に依(よ)つて事を爲さんか、全(まった)き事なく、光明(こうみょう)強き程(ほど)益々(ますます)其(その)陰(かげ)濃(こ)し。人知(じんち)は以(も)つて人類(じんるい)を益々(ますます)危地(きち)に陥(おちい)らしめつつあり。醒(さ)めて而(しか)して人間の小智(しょうち)を捨て、眞道に立ち歸(か)へらば、忽(たちま)ち足下(そっか)に、理想鄕(天國淨土)は開かれん。
人は神靈(しんれい)の發露(はつろ)にして、神靈(しんれい)に反せし自己は、眞(しん)の自己を離れし影法師(かげぼうし)なり。明日と云はず、卽刻(そっこく)我が眞道に歸(か)へれ。此(こ)の大靈光(だいれいこう)は、宇内(うない)廣(ひろ)しと雖(いえど)も 最後(さいご)の最少一點(さいしょう・いってん)にのみあり。故(ゆえ)に我が人類の上に來(きた)る事は、未(いま)だ世の始(はじ)めよりありし事なく、然(しか)れども世の始めより世の終り迄(ま)で、又、地軸の中は愚(おろか)、三世十方(さんぜ・じっぽう)を照破(しょうは)し盡(つく)さざる所なし。 
釋迦(しゃか)は西方淨土(さいほうじょうど)に之(こ)れを認め、キリストの東方天國に認めたる一大靈光(いちだいれいこう)は既(すで)に、吾等人類の頭上に出現せり。之(こ)れ人類中の大聖人(だいせいじん)が證言(しょうげん)せることの實現(じっそう)なり。
最早(もはや)、靈光を遠望(えんぼう)すべき時に非(あら)ず。一大靈光により 心眼(しんがん)を開き、唯一の眞道を歩み、絶對(ぜったい)の境地(きょうち)に 入るべき時は來(きた)れり。

我が眞道に立脚する時は、靈足(れいそく)地軸(ちじく)に達せる超人(ちょうじん)の如くにして、七轉八倒(しちてんばっとう)の憂(うれい)なし。

神軍喇叭(しんぐんらっぱ)はすでに吹き始められ、宇内(うない)の聖靈(せいれい)は今や地上(ちじょう)に集(あつま)り、一大靈光(いちだいれいこう)を中心として諸菩薩(しょぼさつ)の出現(しゅつげん)の時(とき)は來(きた)れり。


■救 世 主 出 現
地上の人類が、永い間待ちに待つた、大親が地上にお降りになりました。もう之(こ)れで如何(いか)なる罪深い者でも立所(たちどころ)に救(すく)はれ、一人殘(のこ)らず彌陀(みだ)の人となる事が出來ます。
今迄(いまま)で縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)しと申しまして、一切のものが救(すく)はれることが出來ませんでしたが、釋迦(しゃか)の豫言(よげん)せられし彌勒菩薩(みろくぼさつ)や、キリストのいはれた天國の父に相當(そうとう)する、最高最大の御力で、一切の衆生済度(しゅじょう・さいど)に來られました、片時(へんじ)も早く此の御光(みひかり)に浴し、無明(むみょう)の暗(やみ)より救(すく)はれん事をおすゝめ申します。今や地下の準備なり、光明の世界に出(いで)んとしての鳴動(めいどう)は、世界の非常時となり、全般に渉りて一大動搖(いちだいどうよう)を來(きた)しつつあります。此の非常時、此の動搖(どうよう)は、丁度(ちょうど)、母胎内(ぼたいない)の闇(やみ)から光明の世界に生れ出んとしての惱みであります。生れ出でて最高の御光り(みひかり)に照(てら)して見る時は、今迄での惡の世界、苦の世界、鬪爭の世界と、苦しみ迷ふてゐた此(こ)の世界(せかい)其(その)まゝが、大親の御懐(みふところ)であつたのであります。現在迄での生活狀態は、左に進むも、亦、右に行くも、不合理にして不得已(やむをえ)ざる行動でした。眞の自由は完全に束縛(そくばく)されて居たのです。それは、胎内の子供が成長するに從(したが)ひ不自由になるが如く、今の世の人々は極度の捉縛(そくばく)を受けてゐます。然し、神は眞善(しんぜん)にして少しの惡も造り出す事なく、此の不自由なる捉縛(そくばく)と世のあらゆる矛盾は光明の世に生れ出でしめんとする前の、しるしであります。がそれを氣付く人のないのは、丁度(ちょうど)母胎内(ぼたいない)に居(い)て母を知る事が出來(でき)ぬ樣(よう)に、此(こ)の暗路(やみじ)でどうして神(かみ)を見ることが出來ませう。
神(かみ)は愚(おろ)か眞の自己を知る事さへ出來ないのですもの、其の無明の暗路(やみじ)に迷つてゐるのが現在の社會です。之(こ)れが此の世ながらの地獄です。
而して神は至善(しぜん)でありますから、地獄といへど眞の惡(あく)は何處(どこ)にも造られてゐないのです。が、暗路に迷ふ人々には順逆を誤つて、一切のものが惡化してゐるのみです。光明が照(てら)して、迷ひが醒(さ)めても、周圍(しゅうい)の事情に變(かわ)りはありませんが、迷へる者と醒めたる者とは、黒白の差よりも甚だしい違いで、此のまゝで地獄が一轉(いってん)して、忽ち天國となり、極樂となるのであります。母の胎内(たいない)より出でゝ、懐(ふところ)に抱き上げらるゝ時、自由と光明とが得(え)られるのであります。斯樣(かよう)にし胎兒(たいじ)が母(はは)を知る如く、眞(しん)に目醒(めざ)めたる時始めて、大神(おおかみ)を知り、自己を知る事が出來るのであります。その抱き上げるのが、天國(てんごく)の父であり、彌勒菩薩(みろくぼさつ)なのであります。一口に申せば世界の大親なのであります。大親なる故に、世の一切(いっさい)のものを造り出す無限の力によって、一切の惡を立所(たちどころ)に善化(ぜんか)し盡(つく)すのであります。昔キリストは時は近づけりと申しましたが、今は既に時は「來た」のであります。此の時、此の際、醒めざる者は、不淨(ふじょう)埃芥(あいかい)として永遠に葬り去らるゝ時が來たのであります。
今の世(よ)に存在せるものに、一物(いちもつ)として惡なるものはありませんが、しかし一旦(いったん)不要(ふよう)のものとなれば、立所(たちどころ)に此(こ)の世より取去(とりさ)らるゝのであります。
迷へる者は速(すみや)かに醒(さ)めなければなりません。早く醒められよ、而して、大親の懐(ふところ)にいだかれて、眞の生命に生くることこそ急務(きゅうむ)であります、急務どころではない、最も樂しい最も意義あることなのであります。普通世間(ふつう・せけん)に於て慈母(じぼ)の愛に勝る愛はありませんが、それにも勝る絶對無限大(ぜったい・むげんだい)の愛に滿(み)てる此(この)大親にいだかれる事を措(お)いて、何處(どこ)に、安き道があり得(え)られませうか。


■大 日 本 敎 の 理 論 的 世 界 觀
大極(神)は時空(じくう)を超越(ちょうえつ)せるそのまゝの姿です。其のまゝの姿は卽(すなわ)ち空(くう)でありまして、有(あ)るがまゝの空で――あるがまゝの空とは一切の物が運動を停止した時です。時は運動に依(よ)る變化(へんか)の尺度(しゃくど)を現すに過ぎません。
運動は又(また)力を生じます。
二對(につい)以上の力の交叉點(こうさてん)に於(おい)て、始めて物を生じます。
力は放力(ほうりょく)と引力(いんりょく)とを同時に生じ、他の二大力と相交叉(あいこうさ)して、他の引くものを放ち、放つものを引く、――故に、停止する事なく、    無始無終(むしむしゅう)に運動を引き起して行きます。かくて如何(いか)なるものも、引力と放力との作用なきものはありません。故に一定の物質なく、一定の時間もありません。

換言(かんげん)すれば、萬物一切(ばんぶついっさい)は、力の交叉點にして、交叉點の連續(れんぞく)が存在となります。

力を去つて物なく、又(また)時(とき)もありません。

又(また)變化(へんか)無(な)き所に力なく、變化は二物(にぶつ)以上にして生じ、一物(いちぶつ)なる時は、卽(すなわち)空(くう)です。

空中(くうちゅう)に有(ゆう)の出現(しゅつげん)により、空(くう)と有(ゆう)の交叉點(こうさてん)は、物を發生(はっせい)します。

以上が此(こ)の一大靈光(いちだいれいこう)に依り照破(しょうは)せる大日本敎の理論的世界觀であります。

――本敎は萬物(ばんぶつ)を照し出す、靈光を本體(ほんたい)と致します ――


■人 道 と 眞 (神) 道 の 相 違
釋迦(しゃか) キリストが法を説き、孔孟(こうもう)が道を敎へてより、数千年の今日に至るも、未(いま)だ世(よ)は聖化(せいか)されません。却(かえ)つて日々惡化する所以(ゆえん)は何處(いずこ)にありませうか。

眞道は、萬古不變(ばんこふへん)の善なるべき筈(はず)であります――先聖偉人(せんせい・いじん)が道を敎へ法を説く前から未だ黒白に轉倒(てんとう)なき如く――   然(しか)るに、道に習はんとして遠ざかる事(こと)千萬里(せんばんり)、今では見方(みかた)に依(よ)つては鳥獣(ちょうじゅう)よりも道を去る事(こと)遠き狀態(じょうたい)です。 
眞理(しんり)にかなふた人生を略言(りゃくげん)すれば、働く事が卽(すなわち)、樂(たの)しみであり、尚(なお)身(み)は長壽(ちょうじゅ)、業(ぎょう)は繁榮(はんえい)して、而(しか)して、自己の利益は卽(すなわち)社會(しゃかい)の利益と一致(いっち)すべき處(ところ)になければなりません。

然(しか)るに、現在の人の世(よ)の有様を見渡しますれば、自己を利すれば他は    損し、他を樹(た)つれば自己倒るといふ有様(やうす)で、人智(じんち)は誤り用ひられて、人類を衰亡(すいぼう)に導きつつあります。

草木は、自己の不要の養分を求めようとして他(た)を害しません。鳥獣も滿腹(まんぷく)すれば他を奪はず。

人は、奪(うば)ふ事を知つて分(わか)つ事と、足(た)る事を知らず。將(まさ)に死に面して、尚(なお)餘財(よざい)の爲(た)めに、肉身(にくしん)の間にすら敵(てき)を作るのみならず、生きんが爲(た)めの財寶(ざいほう)の下敷(したじき)になって亡(ほろ)びて行きます。

これ人道(じんどう)を習(なら)ひし爲(た)め、今は草木鳥獣(そうもく・ちょうじゅう)よりも眞道を去(さ)る事(こと)日々に遠い有様であります。

財寶(ざいほう)は個人の專有(せんゆう)でなく、社會(しゃかい)あつて得られた財寶であって、自己(じこ)獨(ひと)りで財寶を積む事を得ず 社會の爲めに、天下の財寶をより有效(ゆうこう)に活用し得る程度に應(おう)じてのみ、私有する事が許されそこに權利(けんり)があります。否(いな)、權利ではなく、自己の力を與(あた)へられたる神(かみ)に對(たい)しての、義務(ぎむ)があるのであります。

神(かみ)は全能(ぜんのう)なるも權利(けんり)を主張(しゅちょう)致しません。

天下萬物(てんか・ばんぶつ)ありといへども、一物(いちもつ)だに自己專有(じこ・せんゆう)は許(ゆる)されません。

此(こ)の自(みず)から守るべき處(ところ)の、義務を怠る時は、其印(そのしるし)卽座(そくざ)に現はれ心身共に奪(うば)ひ返(か)へれらるゝ時があります。

眞(しん)の義務を超(こ)へたる時に、權利が生じます。其(そ)の時(とき)人間の義務が生じます。權利と義勢(務?)との對立(たいりつ)、之(こ)れが人間の道であります。

神道(眞道)は一途(いっと)にして、その一途は萬有一切(ばんゆう・いっさい)の軌道(きどう)にして、此の軌道に反する時は、滅亡に向(むか)う第一歩です。  

神(かみ)は一切萬有(いっさい・ばんゆう)を創造しますが、未(いま)だ權利(けんり)を主張致しません。ましてや吾れ吾れ(われわれ)人間が權利を主張し得(う)る處(ところ)は、寸毫(すんごう)もありません。

自己(じこ)を護(まも)るは、權利(けんり)ではなく、與(あた)へられたる神(かみ)に對(たい)しての義務(ぎむ)であります。

神は一切のものを世に與へ、われわれ自(みず)からが、われわれ自身を護る以上に、護り給ひますけれども、却(かえ)つて人は己(おの)れを損(そ)んじがちです。

神は、人が世に生れ出てより終る迄で、一呼吸(いちこきゅう)だに手落ちなく働(はたら)かれつつあります。又、米麦(べいばく)一粒(ひとつぶ)といへども、神の道(かみのみち)に反して消化する事を許されません。人(ひと)の知らぬ時、豫知(よち)せぬ時でも、神は伴(とも)にありて一切を指導(しどう)しつつあります。

若(も)し、神の力より離れますれば、目あるも見るを得ず、忽(たちま)ち手足は自由を失ふのみか、一人子(ひとりご?)も奪(うば)はれる事がありませう。

親子夫婦といへども、神に背(そむ)き其(そ)の結(むす)び解(と)くる時は、忽(たちま)ち愛情減し(げんじ)、他人にも劣る敵となる。けれども、神のみは、世の始めより世の終り迄で、人と共にあつて、永久人を守つてゐます。神は偉大であります。

畏敬(いけい)すべきは神(かみ)であります。身一切(みいっさい)を捧(ささ)げる共(とも)、其(そ)の鴻恩(こうおん)に比すれば、一毛(いちもう)の價値(かち)は愚(おろ)か、其の身の一細胞(いちさいぼう)を增(ま)したる程(ほど)にもかけ合(あ)ひません。似て非なる時に迷(まよ)ひ生(しょう)じ、迷ひは時たち、距離遠ざかるに從ひて、憂(うれ)ひは益(ま)します。

神(かみ)は全智全能(ぜんち・ぜんのう)なるものでありますから、如何(いか)なる罪深(つみぶか)き者も、救(すく)はれぬ者はありません。
速(すみや)かに目醒(めざ)めて、頭上(ずじょう)に輝(かがや)く靈光(れいこう)を認(みと)め仰(あお)ぎなば、身邊(しんぺん)は無上(むじょう)の樂園(らくえん)となる事(こと)確實(かくじつ)です。 

■無 自 覺 の 道 中
右を見ても、左を見ても、澤山(たくさん)居られる人々は、一體(いったい)何を目的に働いてゐるのでありませうか、それは人間でありますから、夫々(それぞれ)、相當(そうとう)の目標に向つて、進んでゐられる事でせうが、萬一(まんいち)其(そ)の目標がなかつたり、間違つてゐる時は、昔噺(むかしばなし)にある樣(よう)な、辻切りに逢(あ)つた首なし飛脚(ひきゃく)が、文箱(ふみばこ/ふばこ)を擔(かつ)いで道中をしてゐるのと少しも變(かわ)りはありません。今西に向つて行つたかと思ふと、一寸の出来事に突當(つきあた)り、見當(けんとう)に狂ひが生じ、南に向方(むかいかた?)を轉(てん)じ、又、何かに出逢(であ)ふと方向が狂ふといふて、振返(ふりかえ)つて見直しても、元來(もとき)た出所が分らず、尚更(なおさら)、落着き先は一向(いっこう)に見當(みあた)らず、考へ樣(よう)にも頭は飛んでなし、といつて、じつとしてもゐられず、まゝよと進んで行くうちに、とうとう崖(がけ)から踏み外(はず)し底なし沼に落ち込んで、それでも夢中(むちゅう)で感じずといふて、大地に足もつけず、浮び出られもせず、沼の中間で文箱(ふみばこ/ふばこ)を擔(かつ)いだまゝ、同じ處(ところ)で足拍子(あしびょうし)よく、左右の足を互ひ異ひ(たがいちがい)に動かしている樣(さま)は、なんと不憫(ふびん)と云(い)ふべきではありませんか。扨(さ)て此(こ)の文箱(ふみばこ/ふばこ)の中には、何が這入(はい)つてゐるのでありませう 若(も)しそれを生みの親が見た時は、なかなか笑い事ではありますまい。

一つ皆さん胸に手を當(あ)てゝ、よく御考へ(おかんがえ)を願ひたい。萬一(まんいち)皆さんの知人に一人でも、此の樣な(このような)方(かた)がありましたら、早速お知らせ下さい。動き止(や)まぬうちに沼より引き上げ、取られた首も新品(しんぴん)と取替(とりか)へておもらひ申し、此の人生の旅を互(たがい)に手を曳(ひ)いてまいりませう。

同じ大親から出た同胞(どうほう)なれば、得ようとして得られぬ影法師(かげぼうし)を追ふて、此(この)貴重な人生を空費する暇(ひま)が少しでもありましたら、大親に對(たい)し、御恩返(ごおんが)へしはおろか、思ひ出しもしなかつたお詫びに、是非無い(ぜひない)力ながらも、此の志(こころざし)だけでも通じてもらいたく救助に盡(つく)したいと思ひます。

■各 自 の 居 り 場 所
利他主義(りたしゅぎ)は氣(き)の抜(ぬ)けた芥子(からし)の如く、利己主義(りこしゅぎ)は掻(か)ゆきを掻(か)いて、皮肉(ひにく)を破るが如(ごと)し。
人の世渡(よわた)り船は、自(じ)に片(かた)よるも、他(た)に片(かた)よるも轉覆(てんぷく)の恐(おそ)れあり。

完全(かんぜん)なる物質文化(ぶっしつぶんか)は、完全なる精神文化(せいしんぶんか)の伴(ともな)ひたる時にのみあり。

眞(しん)に徹底(てってい)する時は、自他(じた)、物心(ぶっしん)、共(とも)に一元(いちげん)にして區別(くべつ)なし。

自他物心(じた・ぶっしん)の區別(くべつ)は、一物(いちぶつ)の陰陽(いんよう)の如(ごと)く、陽面より陽の部を、完全に取り盡(つく)したる時、陰面を存(そん)せず、陰面を取り盡(つく)す時も、陽面を殘(のこ)さず。

何(な)にをするにも、此(こ)の境地に達せざれば、完全に行(おこな)はれず。戦爭(せんそう)をするにも、商買(しょうばい)をするにも又すべての渡世(とせい)の上にも、此(こ)の境地に達すれば、萬人共(ばんにんとも)勝利者たる事を得る不思議の法なり。

今日迄(ま)での法は、一方勝てば一方が負け、こちらが儲(もう)かれば相手が損(そん)をする法にて、此(こ)の法に依(よ)るうちは正し(い)道に入る事が出來ず。

一時(いっとき)榮(さか)ゆる事あるも、必ず後日(ごじつ)禍(わざわ)ひを招(まね)くなり。

假令(たと)へば商賣(しょうばい)を初(はじ)めんとすれば、第一(だいいち)自己と世間を見渡し、如何(いか)にすれば、自己はより多く社會(しゃかい)に盡(つく)し得るかを見て後、商賣(しょうばい)を決定するがよし。

而(しか)して、一擧一動(いっきょいちどう)此(こ)の考(かんが)へにて終始(しゅうし)すべし。

新(か)くいへば利他主義の如(ごと)く聞(きこ)ゆれども、實際(ほんとう)により多く社會(しゃかい)に盡(つく)すには、病弱で、無財よりも 強健で祐福(ゆうふく)なる方こそ、一層多く世間(せけん)に盡(つく)す事が出來(でき)る。世間を利益するにも、又(また)自己を丈夫(じょうぶ)にせざれば、出來ざる故(ゆえ)中心點(ちゅうしんてん)を誤らざる事(こと)肝要(かんよう)なり。

此(こ)の中心點(ちゅうしんてん)を得て、商賣(しょうばい)をすれば門前(もんぜん)市(いち)をなす盛況(せいきょう)こそ來(きた)るべし。

又(また)戦爭を爲(な)すにも、必ず此(こ)の絶對(ぜったい)の境地に立たざれば、一時(いっとき)勝つ事あるも、より以上の反動が生じ來(きた)るべし。

病氣、其他(そのた)の事(こと)、あらゆる不平不滿等は、すべて此(こ)の中心點(ちゅうしんてん)をいづれかに、片寄(かたよ)つた證據(しょうこ)と知るべし。

此の境地に立てば、競爭(きょうそう)卽座(そくざ)に止(や)み、共に助け、一人より二人、より多くの人の力の和(わ)にて益々結構(けっこう)なる世の中となる。 

 

 


  


 


 神軍リクルーター ロニサランガヤ
(下記は、信者ではない友人マイケル様のブログから引用でございます。尚、ロニは団体への勧誘は致しておりませんので、あしからず。ご自分でご判断願います。神界佇立の大塚寛一先生に貴方の祈りが届けば、奇蹟現象を体験させていただけます。実証を見てから、ご判断願います。)

http://blog.livedoor.jp/mysticart/archives/1820026.html