忌部の末裔たちの巻~

http://www.hemp-revo.net/report/0506.htm
●麻植郡から吉野川市へ(平成16年10月より)

全国で90箇所近くあった「麻」のつく地名が平成の大合併によっていくつか消えてしまったところがある。その中でも住民投票で麻植市がダントツの1位だったにも関わらず、合併協議会の最終結論は、「吉野川市」。その理由は
全国的に吉野川の方が有名だから。。。徳島県がもつ麻の歴史と文化を完全
に無視した決定である。

麻植郡は、山川町、川島町、鴨島町、美郷村から構成され、阿波忌部(あわいんべ)
という昔の部族(豪族?)の拠点だった地域である。ここで、今回の全国忌部
サミットをNPO法人元気やまかわネットワークという団体が主催し、阿波歴史民
俗研究会の林博章さんを中心とした10年にわたる調査研究の発表の場でもあった。


●徳島県の有力者が集う!

6月25日に行われたサミットには全国各地から忌部の末裔たちやそれに関心の
ある人など600名が集まった。その中でも来賓できていた徳島県知事である
飯泉嘉門、吉野川市長の川真田哲哉をはじめ、女優の水野真紀と忌部神社で
神前式をして結婚した徳島県の衆議院議員の後藤田正純も祝辞を述べるだけ
でなく、サミットの内容を聞きに来ていた。彼は忌部の末裔の一人でもある。
ちなみに彼の大叔父は“カミソリ”と異名をとった元副総理・後藤田正晴で
ある。

それから、イベント時にちょうど妊娠中だった衆議院議員の高井美穂の祝電が
すごかった。忌部と大麻の関係の述べるすばらしいものだった。あまりにも
すばらしくてメモを取るのを忘れてしまった。。。確か出産のときの薬に使う
話や出産時にヘソの緒を麻繊維で切るという話も含まれていたような。。。

プログラムでは、徳島で大麻といえば、天皇の交代時の行事として実施される
大嘗祭(だいじょうさい)を担う三木家さんも登場。阿波忌部の役割と大嘗祭
におけるあらたえ貢進というテーマで国重要文化財三木家第28代当主 三木
信夫として講演。


●阿波忌部の歴史 
 弥生時代末期~古墳時代前期 3~4世紀ごろの話

忌部氏の活躍を著した「古語拾遺」大同二年(807年)によると「天富命をして
天日鷲命の孫を率いて阿波国に移り、穀、麻を植えさせた。その一族がいま阿
波におり、大嘗祭に木綿・麻布など種々の物を献上する。それ故、郡の名を麻
植という」と書かれている。これが麻植郡の名前の由来である。

「忌部」とは「穢れを忌み嫌い、神聖な仕事に従事する集団」との意味をもつ。
大和朝廷成立のためにこの阿波忌部は大きな役割を果たしている。

徳島県の吉野川流域から大和(奈良県)に進出し、大和国造(国造:自治体のトップ)
や伊勢国造になるとともに全国各地に開拓事業を行った。この時期に讃岐、石見、
出雲、伯備、隠岐、丹後、大和、伊勢、三河、遠江、伊豆、武蔵、安房、上総、下総
、下野、上野に進出したと考えれられる。

各地に残される伝承や神社の社伝を見れば、阿波忌部とは、麻、穀、栗、蚕、
和紙、農業、織物などの殖産興業に関わる技術集団&海洋民であったと考え
れるのだ。

古墳時代後期(5世紀から7世紀)になると阿波忌部の勢力は全国各地に散らばり、
大和政権が確立される。

538年に百済から伝来した仏教によって、忌部の「忌」がきらう、避ける、憎みき
らうというような悪い言葉になったので、「忌」を「斎」に改めるようになった。
日本後記によると803年頃の話である。よって、忌部から齋部(斎部)になる。
禁忌=タブーという言葉もありますしね。


●忌部氏と中臣氏

祭祀と政治が一緒であった頃、忌部氏は中臣氏と並ぶ有力な豪族であり、ともに
朝廷の神祭に奉仕していた。天武・持統の時代(673~697年)のことである。
忌部氏は、祭祀官として祭祀の支度をすべてまかなう体制と技術保有。
中臣氏は、神の言葉を人に伝え、人の言葉を神に伝えるのが仕事。

忌部氏は、官僚制度が整うにつれて、中臣鎌足や藤原不比等によってどんだんと
除外されるようになる。その動きを阻止すべく、齋部宿禰広成が大同二年(807年)
平城天皇へ撰上した『古語拾遺』である。齋部氏(忌部氏)の祭儀に関わる伝統
を論じ、中臣氏の横取りを批判したのである。

しかし、齋部氏は律令政権の内部に属しながら、その政権の本質に気づいていな
かった。大和政権の成立からあるそれぞれの氏族が固有に持つ伝統、それこそが
律令制による官僚制度が否定しようとしていたものであった。官僚とは氏族から抜
け出た資質ある個人を抜擢しようとする新しい制度なのである。齋部氏が一族の

伝統を持ち出しても否定される対象でしかなかったのである。