宮下文書(みやしたもんじょ)とは、富士山の北麓、山梨県富士吉田市大明見(旧南都留郡明見村)の旧家、宮下家に伝来する古記録・古文書の総称。「富士古文書」「富士古文献」などとも称される。神武天皇が現れるはるか以前の超古代、富士山麓に勃興したとされる「富士高天原王朝」に関する伝承を含み、その中核部分は中国・秦から渡来した徐福が筆録したと伝えられている。
大正時代には宮下文書をもとに三輪義熈『神皇記』が成立した。

高天原のあった場所を富士山としていることなのですが、「富士山」が現在の富士山のことを指しているのか、それとも飛騨高山あたりなのかについては、説が分かれているようです。

 
◎イザナギの治世にスポットを当た宮下文書の現代語訳

<出典> 美輪義熈著『神皇記』
<原典> 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965674
 
<現代語訳(概略)>
イザナギ命は、別名をタニチ彦といい、クニサツチ命の5番目の御子でした。

舞鶴に居た国常立命に迎えられ、当時、副元帥として阿祖北地方を巡幸して、多くの悪神を退治しました。
(のちにあるように阿祖北とは九州の阿蘇ではなく加賀のことを言っているようです)
 
白山姫(のちにイザナミと呼ばれる)と結婚して、西国を統治しました。
 
生まれつき聡明で、よく人民を愛する方でしたので、人民は「敷島第一の知恵神」とあがめ奉りました。
皇后の白山姫もよく夫を助け、ともに83,010日間もの長きにわたり、西国を統治しました。
(白山信仰とはイザナミ信仰のことのようですね)
 
また周辺の国々を訪れて、国を興し、四海を平定しました。
(四海とは、北海道、東海道、南海道、西海道のことでしょうか?)
 
のちに、高砂の富士山中央高天原に帰りまして、日向高千穂峰の小室の「アタツ山」の穴宮を改造してここに住まわれ、周辺の国々を統治しました。
この都のことを「日向の大御宮の穴宮」といいます。

行政単位・ご祀神・法制度・衣服などに関する記述-------省略
(衣服は木の葉をツタで結んで、穴宮=洞窟に住んだといってますので、縄文時代のことようです)
 
夫婦には一人の娘と二人の息子がいました。
娘を大市姫といい、別名をオオヒルメといいます。(のちの天照大神)
息子は、月峯命と蛭子(ヒルコ)命の二人でした。
 
周辺の広大な御洲(平地)を、オオヒルメに譲り、天照大神と呼ばれました。
周辺の広大な御山(山岳)を、月峰命に譲り、月讀命と呼ばれました。
周辺の広大な御海(海洋)を、ヒルコ命に譲り、栄日子(えびす?)と呼ばれました。
(スサノオが登場しないことに注目!!)
 
二柱は、田場国真伊原の田羽山のふもとに祠を立てて、国常立夫婦の神霊を祀りました。
これを「豊受大神」といいます。
(伊勢神宮の外宮に祀られている神様です)
 
高天原に帰り、小室の日向のアタツ山の西尾崎という岩長峯に、毎晩怠りなく火を焚いて、皇祖神をはじめ、国常立夫婦とクニサツチ夫婦の大御神を祀りました。
世にこの火のことを「高燈」といいます。


二柱は、それぞれ153,500日(約420歳)にして、高天原の小室の日向の穴宮で亡くなりました。
ともに、その大宮の西尾崎にある岩長峯の御陵に葬られました。
 
この二柱は、イザナギ・イザナミと呼ばれるようになりました。
その御陵の前に社祠を造って、「高燈大神」として祀りました。
 
皇后の白山姫(イザナミ)は、はじめ父に代わり副元帥として阿祖北地方を巡幸して、多くの悪神を退治しました。
良い農民たちを親兄弟のように愛しましたので、阿祖北地方の農民たちは喜んでお祝いしました。
だから、この姫の居られた場所を「家賀野」といいます。
 
その姫が亡くなったことが知れわたると、農民たちは大挙してその家賀野原の家賀山の石川のあたりに祠を建てて、その神霊を祀りました。
(現在の石川県=加賀の白山比咩神社のことをいっているようですね。ククリ姫は何者かがあとから差し替えたのでしょうか?)
 
高天原の時代は天神七代、つまり185,000日で終わり、ついに豊葦原の瑞穂の国の時代(天照大神の治世)が始まります。
 

考察
以上のとおり、『宮下文書』の記述からはさまざまな論点が浮上してきますので、以下にメモしておきます。
 
(1) 活躍した舞台はどこか?
イザナギ・イザナミの時代は加賀の国を中心に栄えていたようですね。
 
『ウエツフミ』でも、このあたりは「越の国」と呼ばれており、ウガヤフキアエズ王朝のあった「豊の国」とは同盟関係にあったと書かれています。
 
「敷島」とはおそらく本州のことを指しており、その中心が高天原のある富士山、その西側に加賀があったようです。
『竹内文書』でも、もともと日本国の中心は「富山」であったとされていますので、富士山とは飛騨高山のことであるとする説のほうが、説得力があるように感じます。
 
なぜなら、
【1】現在の富士山は火山であり、その周辺の高原地帯には農作物(山の幸)が乏しく、文明が発達しにくい環境にある。
【2】大陸から船でやってきた徐福の一行が、いきなり富士山を本拠地にしたとは考えにくい。日本海側のどこかに上陸して陸路で富士山を目指すのは困難で、船団が太平洋側に漂着したとも考えにくい。
【3】この記述を徐福自身が書いたとすると、自分がやっと発見した聖地=蓬莱山を秘密にしておきたかったのではないか?
だから誰でも知っている「富士山」と「阿蘇山」をくっつけて、どこのことだか分からないようにしたのではないか?
(この技法は古事記でも使われており、熊本と宮崎がくっついて「タケヒムカヒトヨクジヒネワケ」というややこしい地名となっているが、ウエツフミではタケヒの国=熊本とクシヒの国=宮崎)
 
なお、『竹内文書』にも「イザナギは加賀の白山に葬られた」という記述があります。
詳しくは、こちら。
https://www.facebook.com/groups/kodaishi/permalink/1336098836534863/
 
その後、天照大神の治めた土地は「豊葦原の瑞穂の国」と呼ばれており、「敷島」とは異なっていますので、このあたりから九州が舞台となっていったようです。
 
ニニギの時代には、ツクミチ島(のちの筑紫島)に侵攻したとされていますので、ここからは明らかに九州が舞台です。
 
ちなみに『ウエツフミ』でも、猿田彦は加賀の国で生まれたと書かれていますので、「天孫降臨」とは、先発隊として九州に入っていた猿田彦が、ニニギを新しい統治者として九州に迎えたということでしょうか?
(2) 三兄弟の構成が記紀とは違うこと
この文書では、スサノオが登場してきません。
多分、日向国と出雲国が合併(国譲り)したあと、出雲国に配慮して、ヒルコの代わりにスサノオが追加されたということでしょうか?

記紀では、どういう訳か月讀命の足跡も一緒に消されていますが、『ウエツフミ』においても、もともとは太陽・月・海の三宮信仰であったことが確認できます。
 
『先代旧事本紀』によると、「月讀命が豊受大神を切り殺し、スサノオが保食神を切り殺した」と書かれていますので、
【1】加賀の月讀命が豊受大神=国常立の領土を侵略して農作物を略奪した事件と
【2】出雲国のスサノオが保食神の領土である丹波国を侵略した事件
の2つは別物で、これが(意図的に?)混同されてひとつの逸話として伝わっているのではないでしょうか?
 
さらに、『飛騨の口碑』では出雲国の大国主のことをさんざん批判していますので(女たらしでふがいない人物として描かれている)、高天原=加賀連合国と出雲国とは仲が悪かったようです。
 
ちなみに、ヒルコは海を任された神様とあるので「恵比寿様のことである!」という私の解釈は当たっていたようですね。
 詳しくは、こちら。
 
(3) 消された信仰体系
「白山信仰」がイザナギ・イザナミ信仰のことであり、「豊受大神」が国常立のことであることは、ほとんどの人が忘れかけているようです。
それにしても、これらの神様を消し去らなければならない理由が何かあったのでしょうか?
 
(4) 最後に残る問題点
最後に残された問題は、逆にここに書かれていない下記の事実です。
【1】イザナギ・イザナミは淡路島を訪れた痕跡が無く、国生みを行っていないこと
【2】イザナミが黄泉の国を訪れていないこと
【3】イザナミはオオヤマツミやカグツチを始め多くの神々を生んでいないこと
の3点なのですが、多分、他の誰かの逸話が、イザナギ・イザナミの逸話として集約されて、神道体系の一本化が行われたのではないでしょうか?