(31)「『因・縁・果』の法則について」
アナウンサー:真理教室の大塚先生にお伺いしてまいりたいと思います。先生、今朝はですね、私たちの間でよく言われております、これは先日も伺ったんですが、「因縁」についてお伺いしたいんですが。
総裁:従来、仏教の方では「因縁」ということを非常にやかましく言っておるけれども、まだ仏教が出て、出た当時は非常に昔であって、人知がそこまで進んでいなかったから、非科学的な観念論のために迷信的な要素が非常に含まれていたのである。
けれども、今の物質科学文化が非常に発達してきたから、従来の因縁では納得できないために、因縁を非常に軽く見ておられるようだけれども、一切のものは「因・縁・果」の一つの法則によって現れており、従来のような迷信的な因縁でなくして、そして科学的原理によって、現れてきている。
その原理から押していくと非常に動かすことのできない「原則」がある。それを気づいていくと軽率な行いができなくなる。
どういうふうになるかと言えば、前にもお話ししたように、赤ん坊を熱い風呂や冷たいのに入れると風呂が嫌いになり、可愛がってくれた人に共通した人を見ると好きになり、不愉快な目にあわされた人が嫌いになるように、それが一生のその人の性格を支配していくようになって、万事(ばんじ)はその通りになる。
ところがそれは生まれてからではあるが、生まれる前にすでに因縁づけられておるものはダイコンはダイコンにしかならん、ゴボウはゴボウにしかならん、トンボはトンボ、人は人、そのように良い過去を持つ人と悪い過去を持つ人によってみな変わってくる。
だから、同じ卵を割ってみれば、黄身と白身にたいして変わりがないようであるけれど、アヒルの卵とニワトリの卵を温めて孵(かえ)すと、ニワトリの卵から生まれるヒヨコは絶対水に入らないが、アヒルの子は水に入るというふうに。
だから精虫(せいちゅう)一つのような小さいものにでも、親の顔かたちまでが一つの細胞分子にまで因縁づけられているのである。
なので、生まれてくる子供が、男性の小さい精虫が体内に入っていくと声から顔かたちまでが似てくる。
だから、一挙手一投足(いっきょしゅ・いっとうそく)がそれが原因となって、未来の干渉をしてくるから、人の行いは、軽率なことは絶対することができないことになるのである。
アナウンサー:大塚寛一先生、今日も貴重なお話、誠にありがとうございました‼️