皆さんこんにちは❗人類の大救世主大塚寛一先生1936年発刊「暗夜の光明」の抜粋です。この秘蔵書は現在、国会図書館にPDFだけが存在、80年間、人類の誰の目にも触れることなく眠っていました。ロニが、ある不思議なルートで情報を入手し、コピーを入手して友人と写経し80年ぶりに、人類に復刻、発信させていただきました。人類のアセンションの鍵、「神格化する」、覚醒する秘密が書かれています。心の眼で拝読されてくださいませ!


神軍リクルーターロニサランガヤ

ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 13-16ページ人道と真(神)道の相違

釈迦、キリストが法を説き、孔孟が道を教えてより、数千年の今日に至るも、未だ世は変化されません。却って日々悪化する所以は何処にありましょうか。真道は、万古不変の善なるべき筈であります―――先聖偉人が道を教え法を説く前から未だ黒白に転倒なき如く―――然るに、道に習わんとして遠ざかる事千万里、今では見方に依っては鳥獣よりも道を去る事遠き状態です。真理に叶った人生を略言すれば、働く事が即、楽しみであり、尚身は長寿、業は繁栄して、而して。自己の利益は即社会の利益と一致すべき処になければなりません。然るに、現在の人の世の有様を見渡しますれば、自己を利すれば他は損し、他を樹つれば自己は倒れるという有様で、人智は誤り用ひられて、人類を滅亡に導きつつあります。草木は、自己の不要の養分を求めようとして他を害しません。鳥獣も満腹すれば他を奪わず。人は奪う事を知って分つ事と、足る事を知らず、将に死に面して、尚余財の為に、肉身の間にすら敵を作るのみならず、生きんが為の財宝の下敷きになって亡びて行きます。これ人道を習いし為。今は草木鳥獣よりも真道を去る事、日々に遠い有様であります。財宝は個人の専有でなく、社会あって得られた財宝であって、自己独りで財宝を積む事を得ず、社会の為に、天下の財宝をより有効に活用し得る程度に応じてのみ、私有する事が許され、そこに権利があります。否、権利ではなく、自己の力を与へられたる神に対しての、義務が有るのであります。神は全能なるも権利を主張致しません。天下万物ありと雖も、一物だに自己専有は許されません。此の自ら守るべき処の、義務を怠る時は、其の印、即座に現はれ、心身共に奪い返へられる時があります。此の義務を超へたる時に、権利が生じます。其の時、人間の義務が生じます。権利と義務の対立、之が人間の道であります。神道(真道)は一途にして、その一途は万有一切の軌道にして、此の軌道に反する時は、滅亡に向う第一歩です。神は一切万有を創造しますが、未だ権利を主張致しません。ましてや吾々人間が権利を主張し得る処は寸毫もありません。自己を護るは、権利ではなく、与へられたる神に対しての義務であります。神は一切のものを世に与え、吾々自らが、われわれ自身を護る以上に、護り給ひますけれども、却って人は己を損じがちです。神は、人が世に生まれ出てより終わる迄、一呼吸だに手落ちなく働かれつつあります。又、米麦一粒と雖も、神の道に反して消化することを許されません。人の知らぬ時、予知せぬ時でも、神は伴にありて一切を指導しつつあります。若し、神の力より離れますれば、目あるも見るを得ず、忽ち手足は自由を失うのみか、一人子も奪われる事がありましょう。親子夫婦と雖も、神に背き其の結び解くる時は、忽ち愛情減し、他人にも劣る敵となる。けれども、神のみは、世の始めより世の終わり迄、人と共にあって、永久人を守ってゐます。神は偉大であります。畏敬すべきは神であります。身一切を捧げる共、其の鴻恩に比すれば、一毛の価値は愚か、其の身の一細胞を増したるほどにもかけ合いません。似て非なる時に迷い生じ、迷いは時たち、距離遠ざかるに従いて、憂いは益します。神は全知全能なるものでありますから、如何なる罪深き者も救われぬ者はありません。速やかに目醒めて、頭上に輝く霊光を認め仰ぎなば、身辺は無上の楽園となる事確実です。

  

 


ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 


釈迦(しゃか) キリストが法を説き、孔孟(こうもう)が道を敎へてより、数千年の今日に至るも、未(いま)だ世(よ)は聖化(せいか)されません。却(かえ)つて日々惡化する所以(ゆえん)は何處(いずこ)にありませうか。

眞道は、萬古不變(ばんこふへん)の善なるべき筈(はず)であります――先聖偉人(せんせい・いじん)が道を敎へ法を説く前から未だ黒白に轉倒(てんとう)なき如く―― 然(しか)るに、道に習はんとして遠ざかる事(こと)千萬里(せんばんり)、今では見方(みかた)に依(よ)つては鳥獣(ちょうじゅう)よりも道を去る事(こと)遠き狀態(じょうたい)です。 

      

眞理(しんり)にかなふた人生を略言(りゃくげん)すれば、働く事が卽(すなわち)樂(たの)しみであり、尚(なお)身(み)は長壽(ちょうじゅ)、業(ぎょう)は繁榮(はんえい)して、而(しか)して、自己の利益は卽(すなわち)社會(しゃかい)の利益と一致(いっち)すべき處(ところ)になければなりません。

然(しか)るに、現在の人の世(よ)の有様を見渡しますれば、自己を利すれば他は    損し、他を樹(た)つれば自己倒るといふ有様(やうす)で、人智(じんち)は誤り用ひられて、人類を衰亡(すいぼう)に導きつつあります。

草木は、自己の不要の養分を求めようとして他(た)を害しません。鳥獣も滿腹(まんぷく)すれば他を奪はず。

人は、奪(うば)ふ事を知つて分(わか)つ事と、足(た)る事を知らず。將(まさ)に死に面して、尚(なお)餘財(よざい)の爲(た)めに、肉身(にくしん)の間にすら敵(てき)を作るのみならず、生きんが爲(た)めの財寶(ざいほう)の下敷(したじき)になって亡(ほろ)びて行きます。

これ人道(じんどう)を習(なら)ひし爲(た)め、今は草木鳥獣(そうもく・ちょうじゅう)よりも眞道を去(さ)る事(こと)日々に遠い有様であります。

財寶(ざいほう)は個人の專有(せんゆう)でなく、社會(しゃかい)あつて得られた財寶であって、自己(じこ)獨(ひと)りで財寶を積む事を得ず 社會の爲めに、天下の財寶をより有效(ゆうこう)に活用し得る程度に應(おう)じてのみ、私有する事が許されそこに權利(けんり)があります。否(いな)、權利ではなく、自己の力を與(あた)へられたる神(かみ)に對(たい)しての、義務(ぎむ)があるのであります。

神(かみ)は全能(ぜんのう)なるも權利(けんり)を主張(しゅちょう)致しません。

天下萬物(てんか・ばんぶつ)ありといへども、一物(いちもつ)だに自己專有(じこ・せんゆう)は許(ゆる)されません。

此(こ)の自(みず)から守るべき處(ところ)の、義務を怠る時は、其印(そのしるし)卽座(そくざ)に現はれ心身共に奪(うば)ひ返(か)へれらるゝ時があります。

眞(しん)の義務を超(こ)へたる時に、權利が生じます。其(そ)の時(とき)人間の義務が生じます。權利と義勢(務?)との對立(たいりつ)、之(こ)れが人間の道であります。

神道(眞道)は一途(いっと)にして、その一途は萬有一切(ばんゆう・いっさい)の軌道(きどう)にして、此の軌道に反する時は、滅亡に向(むか)う第一歩です。  

神(かみ)は一切萬有(いっさい・ばんゆう)を創造しますが、未(いま)だ權利(けんり)を主張致しません。ましてや吾れ吾れ(われわれ)人間が權利を主張し得(う)る處(ところ)は、寸毫(すんごう)もありません。

自己(じこ)を護(まも)るは、權利(けんり)ではなく、與(あた)へられたる神(かみ)に對(たい)しての義務(ぎむ)であります。

神は一切のものを世に與へ、われわれ自(みず)からが、われわれ自身を護る以上に、護り給ひますけれども、却(かえ)つて人は己(おの)れを損(そ)んじがちです。

神は、人が世に生れ出てより終る迄で、一呼吸(いちこきゅう)だに手落ちなく働   (はたら)かれつつあります。又、米麦(べいばく)一粒(ひとつぶ)といへども、神の道(かみのみち)に反して消化する事を許されません。人(ひと)の知らぬ時、豫知(よち)せぬ時でも、神は伴(とも)にありて一切を指導(しどう)しつつあります。

若(も)し、神の力より離れますれば、目あるも見るを得ず、忽(たちま)ち手足は自由を失ふのみか、一人子(ひとりご)も奪(うば)はれる事がありませう。

親子夫婦といへども、神に背(そむ)き其(そ)の結(むす)び解(と)くる時は、忽(たちま)ち愛情減し(げんじ)、他人にも劣る敵となる。けれども、神のみは、世の始めより世の終り迄で、人と共にあつて、永久人を守つてゐます。神は偉大であります。

畏敬(いけい)すべきは神(かみ)であります。

身一切(みいっさい)を捧(ささ)げる共(とも)、其(そ)の鴻恩(こうおん)に比すれば、一毛(いちもう)の價値(かち)は愚(おろ)か、其の身の一細胞(いちさいぼう)を增(ま)したる程(ほど)にもかけ合(あ)ひません。

似て非なる時に迷(まよ)ひ生(しょう)じ、迷ひは時たち、距離遠ざかるに從ひて、

憂(うれ)ひは益(ま)します。

神(かみ)は全智全能(ぜんち・ぜんのう)なるものでありますから、如何(いか)なる罪深(つみぶか)き者も、救(すく)はれぬ者はありません。

速(すみや)かに目醒(めざ)めて、頭上(ずじょう)に輝(かがや)く靈光(れいこう)を認(みと)め仰(あお)ぎなば、身邊(しんぺん)は無上(むじょう)の樂園(らくえん)となる事(こと)確實(かくじつ)です。