皆さんこんにちは❗人類の大救世主大塚寛一先生1936年発刊「暗夜の光明」の抜粋です。この秘蔵書は現在、国会図書館にPDFだけが存在、80年間、人類の誰の目にも触れることなく眠っていました。ロニが、ある不思議なルートで情報を入手し、コピーを入手して友人と写経し80年ぶりに、人類に復刻、発信させていただきました。人類のアセンションの鍵、「神格化する」、覚醒する秘密が書かれています。心の眼で拝読されてくださいませ!


神軍リクルーターロニサランガヤ

素肌つるつるセット

 7-10ページ:救世主出現地上の人類が、永い間待ちに待った、大親が地上にお降りになりました。もう之で、如何なる罪深い者でも立所に救われ、一人残らず弥陀の人となる事ができます。今迄「縁なき衆生は度し難し」と申しまして、一切のものが救われることができませんでしたが、釈迦の預言せられし弥勒菩薩や、キリストの言われた天国の父に相当する、最高最大の御力で、一切の衆生済度に来られました。片時も早く此の御力に浴し、無明の闇より救われん事をお勧め申します。今や地下の準備なり、光明の世界に出んとしての鳴動は、世界の非常時となり、全般に渉りて、一大動揺を来しつつあります。此の非常時、此の動揺は、丁度、母体内の闇から光明の世界に生まれ出んとしての悩みであります。生まれ出でて最高の御力に照らしてみるときは、今迄の悪の世界、苦の世界、闘争の世界と、苦しみ逢ふてゐた此の世界其のままが、大親の御懐であったのであります。現在までの生活状態は、左に進むも、亦、右に行くも、不合理にして不得己ざる行動でした。真の自由は完全に束縛されて居たのです。それは、胎内の子供が成長するに従い不自由になるが如く、今の世の人々は極度の束縛を受けてゐます。然し、神は真善にして少しの悪も造り出す事なく、此の不自由なる束縛と世のあらゆる矛盾は、光明の世に生まれ出でしめんとする前のしるしであります。が、それを気付く人のないのは、丁度母胎内に居て母を知ることが出来ぬ様に、此の暗路でどうして神を見ることが出来ましょう。神は愚か真の自己を知る事さへ出来ないのですもの、其の無明の暗路に迷ってゐるのが、現在の社会です。之れが、此の世ながらの地獄です。而して神は至善でありますから、地獄といえど、真の悪は何處にも造られてゐないのです。が、暗路に迷う人々には順逆を誤って、一切のものが悪化してゐるのみです。光明が照らして、迷いが醒めても、周囲の事情に変わりはありませんが、迷える者と醒めたる者とは、黒白の差より甚だしい違いで、此のままで地獄が一転して、忽ち天国となり、極楽となるので在ります。母の母胎より出でて、懐に抱きあげられる時、自由と光明とが得られるのであります。斯様にし、胎児が母を知る如く、真に目覚めたる時始めて、大神を知り、自己を知ることができるのであります。その抱きあげるのが、天国の父であり、弥勒菩薩なのであります。一口に申せば世界の大親なのであります。大親なる故に、世の一切のものを造り出す無限の力によって、一切の悪を立所に善化し尽くすのであります。昔、キリストは「時は近づけり」と申しましたが、今は既に時は「来た」のであります。此の時、此の際、醒めざる者は、不浄埃芥として永遠に葬り去られる時が来たのであります。今の世に存在せるものに、一物として悪なるものはありませんが、しかし一旦不要なものとなれば、立所に此の世より取り去られるのであります。迷える者は速やかに醒めなければなりません。早く醒められよ。而して、大親の懐にいだかれて、真の生命に生くることこそ急務であります。急務どころではない、最も楽しいもっとも意義あることなのであります。普通世間に於いて慈母の愛に勝る愛はありませんが、それにも勝る絶対無限大の愛に満ちたる此の大親にいだかれる事を措いて、何處に、安き道がありえましょうか。

 


ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 


地上の人類が、永い間待ちに待つた、大親が地上にお降りになりました。もう之(こ)れで如何(いか)なる罪深い者でも立所(たちどころ)に救(すく)はれ、一人殘(のこ)らず彌陀(みだ)の人となる事が出來ます。

今迄(いまま)で縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)しと申しまして、一切のものが救(すく)はれることが出來ませんでしたが、釋迦(しゃか)の豫言(よげん)せられし彌勒菩薩(みろくぼさつ)や、キリストのいはれた天國の父に相當(そうとう)する、最高最大の御力で、一切の衆生済度(しゅじょう・さいど)に來られました、片時(へんじ)も早く此の御光(みひかり)に浴し、無明(むみょう)の暗(やみ)より救(すく)はれん事をおすゝめ申します。

今や地下の準備なり、光明の世界に出(いで)んとしての鳴動(めいどう)は、世界の非常時となり、全般に渉りて一大動搖(いちだいどうよう)を來(きた)しつつあります。

此の非常時、此の動搖(どうよう)は、丁度(ちょうど)、母胎内(ぼたいない)の闇(やみ)から光明の世界に生れ出んとしての惱みであります。

生れ出でて最高の御光り(みひかり)に照(てら)して見る時は、今迄での惡の世界、苦の世界、鬪爭の世界と、苦しみ迷ふてゐた此(こ)の世界(せかい)其(その)まゝが、大親の御懐(みふところ)であつたのであります。

現在迄での生活狀態は、左に進むも、亦、右に行くも、不合理にして不得已(やむをえ)ざる行動でした。眞の自由は完全に束縛(そくばく)されて居たのです。それは、胎内の子供が成長するに從(したが)ひ不自由になるが如く、今の世の人々は極度の捉縛(そくばく)を受けてゐます。

然し、神は眞善(しんぜん)にして少しの惡も造り出す事なく、此の不自由なる捉縛(そくばく)と世のあらゆる矛盾は光明の世に生れ出でしめんとする前の、しるしであります。がそれを氣付く人のないのは、丁度(ちょうど)母胎内(ぼたいない)に居(い)て母を知る事が出來(でき)ぬ樣(よう)に、此(こ)の暗路(やみじ)でどうして神(かみ)を見ることが出來ませう。

神(かみ)は愚(おろ)か眞の自己を知る事さへ出來ないのですもの、其の無明の暗路(やみじ)に迷つてゐるのが現在の社會です。之(こ)れが此の世ながらの地獄です。

而して神は至善(しぜん)でありますから、地獄といへど眞の惡(あく)は何處(どこ)にも造られてゐないのです。が、暗路に迷ふ人々には順逆を誤つて、一切のものが惡化してゐるのみです。

光明が照(てら)して、迷ひが醒(さ)めても、周圍(しゅうい)の事情に變(かわ)りはありませんが、迷へる者と醒めたる者とは、黒白の差よりも甚だしい違いで、此のまゝで地獄が一轉(いってん)して、忽ち天國となり、極樂となるのであります。

母の胎内(たいない)より出でゝ、懐(ふところ)に抱き上げらるゝ時、自由と光明とが得(え)られるのであります。

斯樣(かよう)にし胎兒(たいじ)が母(はは)を知る如く、眞(しん)に目醒(めざ)めたる時始めて、大神(おおかみ)を知り、自己を知る事が出來るのであります。

その抱き上げるのが、天國(てんごく)の父であり、彌勒菩薩(みろくぼさつ)なのであります。一口に申せば世界の大親なのであります。

大親なる故に、世の一切(いっさい)のものを造り出す無限の力によって、一切の惡を立所(たちどころ)に善化(ぜんか)し盡(つく)すのであります。

昔キリストは時は近づけりと申しましたが、今は既に時は「來た」のであります。

此の時、此の際、醒めざる者は、不淨(ふじょう)埃芥(あいかい)として永遠に葬り去らるゝ時が來たのであります。

今の世(よ)に存在せるものに、一物(いちもつ)として惡なるものはありませんが、しかし一旦(いったん)不要(ふよう)のものとなれば、立所(たちどころ)に此(こ)の世より取去(とりさ)らるゝのであります。

迷へる者は速(すみや)かに醒(さ)めなければなりません。早く醒められよ、而して、大親の懐(ふところ)にいだかれて、眞の生命に生くることこそ急務(きゅうむ)であります、急務どころではない、最も樂しい最も意義あることなのであります。

普通世間(ふつう・せけん)に於て慈母(じぼ)の愛に勝る愛はありませんが、それにも勝る絶對無限大(ぜったい・むげんだい)の愛に滿(み)てる此(この)大親にいだかれる事を措(お)いて、何處(どこ)に、安き道があり得(え)られませうか。