高根は1936年、内田文吉という古神道の研究家と出会った。内田は剣山に鉱区採掘権を持っており、高根と意気投合するや、その年の7月から鉱区採掘の名目で高根の指揮により、発掘を開始した。その坑道からは、大きな玉石や鏡石が出てきたが、アークと関係のありそうな出土品はついに得られないまま、二人は1943.12月、発掘を中止せざるをえなくなった。高根と内田が発掘を再開したのは、敗戦後の1945.9だが、たちまち資金が底をついてまたも断念、49年には内田が貧窮の内に世を去った。

 なお、50年前後の頃、清水寛山という人物がやはりアークを捜して剣山に登ったが、岩穴で一夜を過ごす途中、岩の下敷きになって死んだという地元の人の証言もある(大塚駿之介「四国にあるソロモンの秘宝」『特集人物往来』昭和三十三年五月号、所収)。


 1951年、高根は徳島県に埋蔵文化財発掘許可申請書を提出したが、翌年、元海軍大将・山本英輔と映画監督の仲木貞一、新興宗教・宙光道教の幹部らが同様の申請書を提出、県ではそちらのみを取り上げて、高根の申請を黙殺した。

 山本、仲木とも太古史マニアともいうべき人物であり、山本はかつてソロモン群島にソロモンの埋蔵金を捜したことがあるという(ソロモン群島の名は、1576年、スペインの探検家がこの島を発見した際、島民が黄金の装飾品を身につけていたことから、ソロモンに黄金を供給した伝説の国オフィルかと疑われたことに由来する)。仲木は関東大学教授になったこともあるインテリだが、戦前には自ら青森県戸来村のキリスト伝説の映画を海外向けに制作したこともある。このように山っ気のある人物がそろうことで、剣山発掘の目的はアークから、時価八千億円のソロモンの埋蔵金にすりかえられてしまった。

 山本は新興宗教・宙光道の中村資山ら同志を伴って52.8.7日に剣山入り、17日から発掘を開始した。その発掘により、山本らは五十体以上のミイラを発見したと主張するが、それは風化のため、土と見分けがつかなくなっていたということで真偽不明である。途中から、竜宮教教主・伊藤妙照なる人物も剣山に入り、古代の土器や人体の化石を掘り出したと発表したが、その現物は公開されなかったらしい。9月に入ると山本らの発掘は資金難から次第に行き詰まり、残ったのは発掘口の穴と山本の借金、そして神域を荒らしたことに対する地元の怒りの声ばかりという有様となった。

 山本らの発掘挫折の後、剣山を御神体山とする大剣神社では剣山山頂の発掘を一切禁じるという立場をとった。その後、70年代においても、宮中要吉氏ら少数の有志による発掘は非公式に続けられていたが、地元の大多数の人々は、その話をもはや忘れさろうとしていた。

 ところが1,990年代に入ってから、この状況に変化が生じる。きっかけは国際文化新聞編集長(当時)の三浦大介氏が、高根三教『アレキサンダー大王は日本に来た』を編集した縁で剣山を訪ねたことである。三浦氏はそこで大杉博氏と知りあい、国際文化新聞紙面に、邪馬台国四国山上説の発表の場を設けることになった(大杉『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』の推薦文は三浦氏が書いている)。

 かくして、剣山のアークは四国山上説とセットで三浦氏により広められることになった。真先にこれに注目したのは先述の宇野正美氏である。大杉博『邪馬台国の結論は四国山上説だ』の帯コピーには「宇野正美氏も絶賛」の文字が踊っている。宇野氏は「古代ユダヤは日本に封印された」(『歴史Eye』九四年七月号、日本文芸社、所収)において、次のように主張する。現在、ユダヤ人と呼ばれる人々の大多数は紀元後八〇〇年頃、ユダヤ教に改宗した中央アジアのカザール人の子孫、アシュケナジー・ユダヤ人である。本当のユダヤ人ともいうべきパレスチナのスファラディ・ユダヤ人はアシュケナジーにより虐げられてきた。

 スファラディ・ユダヤ人の中には日本に渡来して、大和朝廷の日本統一に協力した者もいた。日本の神輿は「契約の箱」にそっくりであり、古代ユダヤ人の日本到達の証拠となる。「契約の箱」を日本にもたらしたのは、おそらく預言者イザヤの一群であろう。イザヤはユダ王国が滅びるのも近いと見抜き、「契約の箱」をもってイスラエルを脱出、日本に向かった。大杉博氏のアドバイスによると四国山上には古代のハイウェーが走っている。剣山が人工の山であることは高根正教の発掘で証明された。四国が到着地となったのは、四国山上の地形がパレスチナの地形によく似ているからである云々。

 以上の主張は宇野氏の著書『古代ユダヤは日本で復活する』(日本文芸社、一九九四年)でも繰り返されている。なお、この著書によると、宇野氏が預言者イザヤに着目したのは、記紀神話のイザナギ・イザナミをイザヤとその妻のことだとする川守田英二の説(川守田『日本ヘブル詩歌の研究』上・下、一九五六・五七年)に基づいてのことだった。

 また、一九九四年九月八日から十一日にかけて、徳島県美馬郡貞光町の商工会青年部は宇野氏や大杉氏の主張を地域振興に利用するべく、日本探検協会会長・高橋良典氏を招き、剣山周辺の遺跡調査を行っている。

 その前日、同年九月七日付・徳島新聞は「古代史ロマンで活性化」という見出しでこのことを報じた。その記事では同商工会青年部の斎藤衛氏が「古代史ロマンは貞光町だけでなく、四国四県にまたがんている。今後は、他地域の有志らにも呼び掛けて情報ネットワークをつくり、面的な広がりを持つ地域振興を図りたい」とコメントし、同紙コラムでも乾道彦記者が「剣山に古代ユダヤ人が移住し、日本の基礎を確立。邪馬台国へとつながった-(中略)この仮説と地域振興をつなげ、滞在型の“古代史の里”の整備は、ユニークな構想だ。過疎化に悩む地域にとっては、一筋の光明ともいえる。いかに育て、広げていくか。活動に注目したい」と述べている。

 さて、『古語拾遺』は古代、天日鷲命(『新撰姓氏録』によると斎部氏=忌部氏の祖)の一族が四国の阿波に入り、さらに阿波の忌部氏が関東の安房へと移住したことを伝える。日本探検協会はこの斎部氏=忌部氏の伝承に特に深い関心を寄せたようだ。

 高橋氏の剣山調査に同行した有賀訓氏は、その直後に書いた「房総『笠石遺跡』の秘密がついに解けた!」(『weeklyプレイボーイ』一九九四年十月二五日号、所収)で、房総半島に「亀をモデルにした石造物」があるとして、昭和薬科大学教授(当時)・古田武彦氏の「縄文時代の航海者は亀を崇拝していた」という説を紹介し、「斎部の故郷・剣山周辺の古代遺跡を見て回ったが、予想どおり亀をモデルにした巨石を数多く確認できた。となると、海上のアワ・ルートを通じて房総へ巨石文化を持ち込んだ人々の正体はやはり斎部氏ということか?」と述べている。

 また、有賀氏のこの記事には、房総半島が大和朝廷の関東進出の足がかりになったことについて、「実際には、古くから黒潮潮流を利用していた斎部氏に案内されて、ようやく大和勢力の関東進出がスタートしたということでしょう」という高橋氏のコメントも引用されていた。

 その後も有賀氏は同じ週刊誌の記事で、剣山の財宝伝説について触れ、「この約半世紀前の発掘騒動は、剣山山麓に生まれ育った六十歳過ぎの人ならば大抵は記憶している。発掘現場に潜入した人も多く、“トンネルの中には海砂が厚く敷かれていて大人たちが首を傾げていたよ”といった当時の目撃談が聞かれた」と述べる。

 この記事では、有賀氏は、忌部氏族を約四七〇〇年前、初の石造ピラミッドを設計・建造したエジプトの宰相イムホテプの流れをくむ技術者集団であろうとしている(「古代エジプト民族が日本に上陸していた!!」『weeklyプレイボーイ』一九九七年六月三日号、所収)。

 さて、高橋氏の調査後、日本探検協会では、忌部氏の祖・天日鷲命はヴィマナ(古代インド叙事詩に登場する空艇)に乗って大空をかけめぐった太古の英雄であり、剣山には太古の地下都市シャンバラの宮殿とヴィマナが今も眠っているとして、「四国は日本太古史の究極の秘密の鍵を握るところ」であると主張する(日本探検協会編著『地球文明は太古日本の地下都市から生まれた!!』飛鳥新社、一九九五年。幸沙代子「失われた太古日本の世界文明」『日本超古代文明のすべて』日本文芸社、一九九六年、所収。幸氏は日本探検協会事務局長)。

 なお、高根や山本によるアークおよびソロモンの秘宝探索の波紋は剣山以外の場所にも波及している。故・浜本末造によると、「契約のヒツギ」はエルサレム陥落前にイスラエルの民によって神殿から運び出され、釈迦、秦始皇帝、新羅王家の手を渡って、神功皇后により、奈良県吉野の玉置山に隠されたという(浜本『万世一系の原理と般若心経の謎』霞ケ関書房、一九七三年)。もっともその後、浜本は「契約のヒツギ」は神功皇后が鳴門の渦の中に納めたとも述べている(浜本「神国日本の秘められた歴史と使命」『地球ロマン』復刊一号、一九七六年八月、所収)。

 沖縄の斎場御嶽にもソロモンの秘宝が隠されているという話がある(喜屋武照真『炎のめざめII 太古の琉球にユダヤの痕跡』月刊沖縄社、一九九七年)。同書に掲載された霊能者・石田博の手記によると山本英輔の剣山発掘は当時、「行者の間では問題になった」とあり、それに続けて斎場御嶽のことが出てくるので、この沖縄のソロモン秘宝の話が剣山から飛び火したことは間違いない。

 徳島県名西郡神山町で「日本超古代研究所チナカ」を主宰する地中孝氏は、ソロモンの財宝は剣山ではなく、その東の神山町神領方面にあるとする(地中『ソロモンの秘宝は阿波神山にある!』たま出版、一九九五年)。この地域は阿波邪馬台国論者によって卑弥呼=天照大神の本拠とされたあたりである。神山町内に立てられた「日本超古代研究所チナカ」の看板には「古代文字を解読してソロモンの秘宝の謎に迫り解読と発掘に賞金五億円ウガヤ王朝の京は神山にあった」というコピーが踊っている。

 神山の山村出身の地中氏は同書において、「庸の時代から三〇〇〇年変わることなく続けられた高地性山岳農法と生活の体験」を記している。地中氏は、小学校三年生の時、姉の下宿している徳島の町に出ただけで「山峡の谷あいで生れ育ち、外界の広さを知らぬ井の中の蛙であった子供心に、あくまで広大でまだ見ぬ世界のあることを、大人のさまざまな生き方があることを単純に開眼した」という。地中氏には申し訳ないが、同書で一番面白いのは、この山村生活の回想のくだりである。
 

 さて、高根正教から日本探検協会まで、剣山のアーク(もしくはソロモン秘宝)について諸説あるが、なぜ、ソロモンゆかりの宝が遠く離れた四国にあるのか、その説明は様々である。高根はアークを日本にもたらしたのはアレキサンダー大王(=崇神天皇)と田島守と考えているが、山本の発掘に協力した中村資光は「ソロモン王家」という実際には存在しない王朝(ソロモンは人名であって家名ではない)が剣山にやってきたと説く。佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船団に着目するし、宇野正美氏はイザヤがアークを持ってきたという具合である。

 剣山のソロモン秘宝説、邪馬台国四国説、高天原の比定、太古日本世界文明説(木村鷹太郎の新史学、『竹内文献』、日本探検協会)の論法には類似点がある。

 宇野正美氏は、次のように述べる。「長きにわたって四国は“死国”とされてきた。四国について書かれた小説はほとんどないし、四国についての歴史教育はほとんど行われない。日本中に高速道路が張り廻らされたとはいえ、最後にそれが完成したのは四国の中でも阿波の国、徳島県だった」(前掲「古代ユダヤは日本に封印された」)。

【「神秘の剣山説」】
 大塚駿之介氏によると、山本の剣山発掘に同行した中村資山は霊媒であり、次のような剣山の秘史を霊視していたという。「剣山は、むかし、岩石が花の雄しべのように乱立していて、その真ン中に、雌しべのごとき一本の大きな石の柱があった。その残りが、根幹だけとなったいまの宝蔵山である。故国を脱出したユダヤのソロモン王家とその一族六、七千人がいまから三千七、八百年前に東進してきて、剣山のこの特異な姿にひかれ、室戸岬に上陸し、山頂において十四代八百余年に及ぶ文化生活をはじめた。頂上には王家と近親五百人くらいが残り、三代めの王のころは、大半が下山して祖谷地方に走り西に移動しながら伊予の奥に達した。頂上族は、信仰の象徴であり中心であった大石柱が倒壊したので、王は自殺し、嗣子がなかったため、十四代をもって解体した。そして、王宮と重宝を埋蔵し、すべての史跡を岩石化するために、約二カ年の歳月をついやし、現在のような姿の剣山とした。下山族は、この悲報を伝え聞き、王妃と姫を守って故国へ帰ろうと計り、さっそく実行に移ったが、途中、北陸の金沢付近まできたとき、王妃と姫が相次いで病死してしまった。その後、頂上族と下山族の間にしばしば対立と闘争が続いたが、やがて、伊予の奥地一帯にほとんどが定住し、帰国する者がなくなり、平和になった」(「四国にあるソロモンの秘宝」)。

 また、78年に剣山のソロモン秘宝伝説を現地取材した柞木田龍善氏は、「剣山が阿波の古代文化発祥地で、約四千年前も、室戸岬から約一万人のユダヤ人が北上して付近にすみついていた」、「平家落人部落で知られるこの祖谷山の住民は、世界各国でみたユダヤ民族の顔と共通点である。あそこにはユダヤの血が残っている」という山本英輔の言葉や「二千五百年前に十四万四千人のユダヤ人が日本に移住し、剣山にユダヤの三種の神宝を埋蔵し、新しいユダヤ国家を日本という名で創始した。神武維新とはほんとうはこれをいう」という第三文明会会長・小笠原孝次の説を伝えている(柞木田『日本超古代史の謎に挑む-日本・ユダヤ同祖論の深層-』風濤社、一九八四年)。

 武内裕氏(武田洋一)は、剣山は縄文時代以前の原日本人が遺したピラミッドであり、そこに埋められているのは原日本人の宝物であろうという(武内『日本のピラミッド』大陸書房、一九七五年)。

 佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船がインド、東南アジアまで至っていたとして、「おそらく、古代世界最大、最良質の真珠採取海域であった日本近海も彼らの視野に入っていたであろう。タルシシ船団は、ルソン島沖で日本海流(黒潮)にのれば、それこそ目をつぶっていても、日本列島に到着する。九州、大分で発見された前八世紀の縄文製鉄の遺跡は、この船団の仕業と見てよい。彼らは、わずかな鉄と大量の真珠や砂金とを交換して巨利をむさぼったのであろう。(中略)このようなソロモン時代にさかのぼれるユダヤ人の渡来が、四国の剣山に伝わるソロモンの財宝埋蔵伝説の集団無意識的背景となっているのではないだろうか」(佐治『謎の九鬼文書』徳間書店、一九八四年)と述べる。

 ちなみに前八世紀の大分県にソロモンの製鉄プラントがあったというのは、もともと鹿島昇氏の説である。なお、大分県の製鉄遺跡について、その年代を前八世紀とするのは九州大学助手の故・坂田武彦の鑑定によるものだが、現在の考古学的常識では日本列島で後三世紀より前の確実な製鉄遺跡はまだ見つかっていない。

 鹿島氏は『古事記』の大国主命(大物主命)の一族はソロモンの末裔だという。すなわち、『古事記』の因幡の白兎の話の原形と思われる説話がマレー半島にあり、そこではソロモン王の命令を受けたと称する鹿がワニをだましたという話になっている。したがって「マレー神話の“ソロモンの命令を受けた鹿”は『古事記』の“大物主命に助けられた兎 ”に対応するから、ソロモン・イコール・大物主命という図式が成立するのである。なるほど、大物-オーモン-ソロモンと考えれば、謎はとけてしまう」というのである。

 また、鹿島氏は、日本のいわゆる神代文字の中にフェニキア文字から発展したものかあるとも述べている(鹿島『日本ユダヤ王朝の謎』正・続、新国民社、一九八三・八四年、他)。