今回は、我が四国に来た「古代ユダヤ人」の話題にさせて頂こうかと思うのですが、伝承では、約2000年前に彼らは四国に来たそうです。

尚、以下からは、文章能力のない私では正確に伝えられないと思いますので(ry、今回もまた、よそ様がネット上に公開して下さってる内容を、そのまままるっと転載させて頂こうかかなと思っておりまする…(vv;)←蹴っww

以下、http://e4.gofield.com/column/archives/000356.php 様から拝借。
---------------------------------------------------------------

今回のガイド役である林氏(『日本の建国と阿波忌部』の著者)は、この忌部の里に散らばる大小の神社、古墳、この地方に産する青石(緑泥片岩)を用いたメンヒル(立石)などの分布を詳細に調査している。

 東北地方には、縄文時代中期に作られたストーンサークルが各地に存在し、さらにそれと関係する巨石遺構も残る。それらは、明らかに古代の太陽信仰をベースとしていて、冬至、夏至、春分秋分など一年の区切りの日の太陽の運行に合わせて配置されている。そして、それらの「聖地」は、後に東北地方で力を持ったアラハバキ神を信仰する鉱山技術の民(炭焼藤太や金売吉次は、まさにこの集団に属していた)にとっても聖地とされた。

 阿波忌部氏もメンヒルやドルメンを造り、それを各地に配置したと聞いて、東北の鉱山技術の民に繋がる何かがあるのではないかと感じた。

(中略)

メンヒルと神社が指し示すもの

men1.png

men2.png

 今回のツアーでもっとも関心のあったメンヒルは、忌部の里全体では1000基以上も確認されているという。実際、集落の片隅にも庚申塚のように据えられた特徴的な青石があり、畑の隅には立石の上に蓋をしたような格好のいわゆるドルメン状のものまであって、これは地元では「山の神」や「かまどさん」 と呼ばれているという。

 急斜面に石垣を築いて棚畑を形作る技術を見れば、忌部の人たちが石を扱うことに長けていたことは一目瞭然だ。山地を渉猟して鉱物資源を探し、さらにはタタラを築いて金属を精錬していた民族ならば、石の扱いに慣れているのは当たり前ともいえる。

 だが、おびただしい数のメンヒルを築いた目的は何だろう。

 実際にそれを目にするまでは、ぼくはタタラを行う際に炉に吹き込む風を最大限にできるように山から吹き降ろす風の通り道を示した一種の道標のように用いられていたのではないかと想像していた。

 だが、集落に点在するメンヒルを見る限り、そうした法則性があるようには見えない。もっとも、後代にタタラを行わなくなって、その意味が忘れられ、一般的な道祖神や塞の神に姿を変えたとも考えられる。

 奥深い山中には、人の背丈を越える大規模なメンヒルが昔のままに残されているというが、残念ながら今回はそこまで調べることはできなかった。

* * * * * * * *

ツアーの最後に、忌部でももっとも古い集落の一つ、伊良原を訪ねた。ここには、忌部神社の里宮である「御所神社」と、典型的な巨石遺構の奥宮があるという。

 日の暮れる前に奥宮だけでも確認したいと、急斜面をあえぎながら上り詰める。

 そこには、むき出しになった岩盤の上に巨岩を据えた大規模なドルメンと、そこから西に向かって築かれた石垣があった。いずれも里で見たものとは異なる大きな岩を加工したもので、正確に南北線を指し示していた。

 里宮に当たる御所神社は方位角56°方向で、この地方の夏至の太陽が上る方向60°に近い。地形を考えると、ほぼぴったり、里宮方向から奥宮へ向かって夏至の太陽の朝日が差し込んできたのではないだろうか。

men3.png

men4.png

ツアーの翌日、忌部にとっての総社がある種穂山を訪ねた。

 ここは、阿波忌部の祖神である天日鷲神(あめのひわしのみこと)が降臨したとされる山で、頂上には種穂忌部神社が鎮座する。

men5.png

(中略)
 


今回のツアーでは、いつもレイラインハンティングを行うときのように、GPSを持参して、各物件の正確な場所をプロットした。そのデータをデジタルマップに転送すると、面白い事実に気がついた。

 そこには、夏至の太陽を指す遺跡と神社の配置が浮かび上がっていた。

men6.png

men7.png

上の図の白人神社と神明神社の部分をクローズアップすると......

men8.png

men9.png

白人神社の南西に位置する神明神社。「神社」とされているが、その姿は古墳か巨石文化に関係する遺構のように見える。この長辺が白人神社を指し、同時に夏至の日の出方向を向いている....

---------------------------------------------------------------
以上、転載はここまで。

尚、↑の写真の「神明神社」とは、下記の動画に登場するイスラエル大使が、

「これは、古代ユダヤの神殿の造りと同じだ」
http://www.youtube.com/watch?v=xoowLHXVTvI&feature=related

と言った場所になります(^^;)

さてさて、このように阿波の地(徳島)に「古代ユダヤ文明?」を築いた古代ユダヤの皆さんですが、今から約1400年前に、今度は近畿地方に移住して行き、その地に元々居たお仲間さん(古代ユダヤ人仲間ですね^^;)と共に、後に「平城京」を建都したのでありますが、この「平城京」も古代ユダヤの秘儀である「カバラ」を使っているのは有名でありますね(^^)v

ちなみに、余談になりますが、今回のテーマにさせて頂いた阿波の「忌部氏」ですが、何だか一般的には

「蘇我氏の手下だった」

みたいな事を言われているようで、とても残念でなりません…(T^T)
正確には、「蘇我氏」ではなくて、「聖徳太子」に仕えていたのでありまして、決して「蘇我氏の手下」などではなかったのです~(><;)

尚、そう言えば前回、『先代旧事本紀』関連本につきまして書かせて頂きましたけども、この『先代旧事本紀』の中には忌部氏の子孫が書かれた『古語拾遺』から引用されている箇所があったりするそうで、そういった観点からも忌部氏と聖徳太子の繋がりは深いように思えます(vv)

そして、もう一つ、「忌部氏の誤解」としまして、「神代文字を否定した者」といったレッテルが貼られてしまっているようですが(ry、これも大きな誤解です…(><;)

以下、http://members3.jcom.home.ne.jp/shishoukaku/07sk/
160627fabrication/fabrication.html#507 様から拝借。
---------------------------------------------------------------

『古事記(712)』、『日本書紀(720)』、『古語拾遺こごしゅうい(807)』 の意味

 ・このような時代的背景の下で、先代旧事本紀の後に編纂されたのが、古事記・日本書紀・古語拾遺で
あるから、古代の文字・文化・歴史に関して欺瞞的記載がなされているのは当然である。

 ・特に『古事記』は古代の皇室の行動を意図的に卑しめた作り話が多く、後述する神代のヲシテ文献と
  比較すると歴史の改竄が明確である。江戸期の優れた国学者である本居宣長が『古事記』に陶酔して
  道を誤ってしまったのは、無残という他はない。
  
 ・漢字渡来以前に日本に文字がなかったという神代文字否定論の原点は、『古語拾遺こごしゅうい(忌部広成いんべのひろなり撰)』
  に「上古に文字あらず」とあることにある。ところが、撰者である忌部広成いんべのひろなりの忌部いんべ氏は、太子・馬子
  の命によって古代文書を差し出した六家(内縁および吾道、物部、忌部、ト部、出雲、三輪)の一つ
  であり、また祖先天富命が遺し、神代文字が書かれていた「神魂土笥」を泡輪宮に粛奉してきた家で
  ある。即ち、忌部いんべ氏はヲシテ文献を守って来た家そのものなのである。

  このような家柄の忌部広成が、180年程前、その神魂土笥を聖徳太子に取り上げられた自家の重大事
  を知らなかったとは到底考えられない。考えられる理由は唯一つ、古代に文字が無かったことを強調
  しなければならない重大な理由があったということである。

・そもそも、よむ、かく、しるす、ふみ、したためる・・など、読み書きに関する言葉は全て訓読みで
  ある。漢字以前に文字がなかったというなら、これらは、全て音読みである筈である。

---------------------------------------------------------------
以上、転載はここまで。