みなさん、おはようございます。ロニサランガヤでございます‼️ 


人類大救世主大塚寛一先生の建白書『大日本精神』は、昭和十四(一九三九)年九月十一日に第一号が発行されました。以降、毎回約千余通、閣僚、政府要人、参謀本部、軍令部、大政翼賛会などの指導層や宮家別当へ送り続けられました。

 建白書の印刷、発行、郵送に当たられたのは、総裁夫人の大塚国恵先生でした。言論統制厳しい時代にもかかわらず、不思議なことに、お二方には微塵も危害は加えられなかったのです。時代背景を振り返ってみると、全世界は、不気味な動きを示しながら大戦争の渦へと突き進んでいました。
 当時の日本も、満州事変、五・一五事件、二・二六事件、日中戦争(支那事変)、さらに日独伊三国防共協定、軍部の台頭等と内政、外交にわたってその進むべき道を見失い、混沌とした情勢に陥り、一路戦争の方向へと驀進していったのです。
 大塚寛一先生は昭和十四年夏、「新聞に出ている報道は、事実を正確に反映していないに違いない。もう一度、自分の目で確かめてこなくてはいけない」と、単身中国大陸に渡られました。当時は、昭和十二年に始まった日中戦争のさなかです。先生は危険を顧みず、戦地に赴いたのでした。
 大塚先生は、帰国されると昭和十四年九月十一日、『大日本精神』第一号を発行されます。その内容は、「大日本精神宣言」に始まり、「欧亜の情勢」「指導者に対する要望」「統制について」「教育について」「支那問題」と続きます。
 中でも、「欧亜の情勢」については、ドイツ、イタリアとの三国同盟を締結しようとする大きなうねりの中で「独は自己の利害以外、如何なるものも犠牲にして顧みざる利己主義の権化なり」と、ヒトラーの本質を暴かれています。
 しかし、当時の日本人の大半は、その本質を見抜くことができませんでした。ヒトラーは昭和十四年九月、大戦の火蓋を切り、翌十五年春になって俄然活発な動きを始め、わずか一カ月の電撃作戦で英軍をダンケルクからドーバー海峡に追い落とし、フランスを席捲してパリを占領し、六月十七日にフランスを降伏せしめたのです。そして、その余勢を駆ってイギリス本土に上陸する気配すら見せたのです。
 日本は朝野を挙げてドイツの戦果に興奮し、新聞も米英何するものぞとの過激な論調を掲げ、親独派が急速に勢いを増しました。
 このような折、大塚先生は、欧州の戦況に迷わされることのないよう建白書を出されたのです。
 しかし、当時の指導者は、御警告に耳を傾けることなく、昭和十五年九月に日独伊三国同盟条約を締結してしまいました。
 昭和十四年十二月二十三日に発行された『大日本精神』第三号などには、国家総動員法(戦争に備え、国の経済や国民生活をすべて統制できる権限を政府に与えた法律。昭和十三年、第一次近衛文麿内閣のときに制定された)に基づく統制経済やドイツ・イタリアのファシズムおよびソ連の共産主義を模倣する動きに対して、御警告を発せられています。
 「現今西洋には露国を始め独伊の如く、統制経済とか国家社会主義とか、色々変わった制度があるが孰れも経済的大患に陥り、已むを得ざる非常手段である。(中略)かかる変則な統制を模倣してはならぬ」

 さらに大塚先生は、警世文を一般紙(新聞)にも発表されています。昭和十五年七月六日には『東京日日新聞』紙上において、広く国民に知らしめました。

 


 その中で政党の在り方を次のように説かれています。
 「傑出せる大思想の許にでき上がる超党的大団結こそ国民挙げて希望するところである。しかし(中略)時局に名を借り大団結を叫び、又、自党の分裂につぐ動揺と摩擦を逃れんため、純正なる新党樹立の許に参加を企てる如きは再び動揺拡大と為政者の国民の違反する恐れあるを憂ふ」
 大塚先生は、ドイツ、イタリア、ソビエト連邦の一党独裁による挙国一致体制に影響された近衛文麿の新体制運動についての問題点を指摘されているのです。
 しかし、約二週間後の七月二十二日、第二次近衛内閣が成立し、十月十二日には、すべての政党が自発的に解散し、大政翼賛会が発足したのです。こうして大政翼賛会を中心として、軍部の方針を追認し、支える体制(翼賛体制)が成立しました。
 十六年四月十三日、日ソ中立条約が調印されました。その直後五月二十日に発行された建白書には、「利害の相反せる日ソ間にいかなる条約を結ぶも、一朝、破棄することの有利に情勢が転ずれば、何時にても無効たらしめらるることは明らかである」とソ連が日ソ中立条約を破ることをすでに予言しています。さらに、「その条約を過信して、この重大危局に当面せる我が国策を立てることは、実に危険であるから、国民は大いに警戒を要する」と、まさに将来を見通された御警告を発せられています。事実、戦争末期には、日本がソ連に和平工作を依頼したにもかかわらず、ソ連は中立条約を無視して、満州や樺太、千島に侵攻してきました。
 そして、「今回成立せし日ソ中立条約を機会にわが外交を一転し、英米と中立または不可侵条約を結ばざるまでも、適当なる方法で両国に対し東洋における不安をなからしめ、一方援蒋政策(中国の蒋介石政権を援助する政策)を放棄せしめるとともに日対英米間の貿易を旧態に復せしめるとともに、支那全土を敏速に解決し、次期に対して平戦両用の準備をなすことが、南方進出より国際関係と支那事変を複雑化せしむるより大局において得策ではあるまいか」と具体的な進路をお説きになっているのです。このように大塚先生は、終戦に至るまで、時に応じて、具体的に日本の進むべき道を説いてこられました。その中身は、政治・経済・教育・宗教に至るまで、多岐にわたります。
 しかし、当時の指導者の大半は、御警告に耳を傾けることなく、日本は未曾有の敗戦へ突き進んでしまったのです。

★さて、ロニは人類大救世主大塚先生から下記を如是我聞しています。


勝負でもその通り、相撲には「仕切り」というものがあって、なかなか立ち上がらない。あれは心身の調和をはかっていて、その調和がとれ、細胞分子が秩序整然とすると、相手が乱れているとき、楽勝できる。戦争の場合も同じ原理である。弓は弦(つる)から矢が離れるとき、鉄砲は引き金を引くとき、すでに当たる当たらぬが決まっている。戦争も、始めるとき勝敗は決している。大東亜戦争前の昭和十四年九月から、当時日本の指導者が行なっていることは極めて危険であり、もしこのまま進展すると大変なことになる。もし英米と戦えば、日本は有限の兵を東亜全面に分散しているから、敵は兵を痛めず後退し、国内の防備稀薄ならしめ、数千の敵機が襲来し、わが木造建築物の弱点を衝いて焼き払い、そのときソ連は不可侵条約を破棄して背後から殺到してくることは自明の理であり、三千年来の大敗を招くから絶対に戦ってはならないことを警告し、その反対に不戦必勝の法を教えたが用いず、遂にその通りの結果となってしまった。

大塚寛一先生

神軍リクルーターロニサランガヤ