一度は行ってみたいと心に有った


下呂温泉

そこでの一日を過ごして参りました。



大雨に洗い清められた
自然界。

そこにいるだけで

疲れきった心身が
緩んで行くのを想わされ、

と同時に

死んだようになって、

睡眠を貪りました。



この時になって初めて
自分が何をしにきたのかが明らかになりました。


気がつけば
もう40年。


私はヨガ行者でありました。


始まりからこのときまで、
それは一貫しておりました。


私流といえばそれまでですが。


私の理解するとろこのヨガ。

それは

[ 繋ぐ ]


(馬にくびきをかける)という意味の動詞の語源
[yuj]


馬車を引く馬と、馬に引かれていく馬車。

この双方が離れないように
しっかりと繋ぎとめる紐(yuj)

これがヨガと呼ばれるようになりました。


ポージングをしているときも

瞑想をしているときも

いえ、いえ

この理解からしますと、

生きている全てがヨガになります。


私は常に
乗り物である肉体と、操縦者である心とが
ぶれないことを心して参りました。


ところが


これが非常に難しいのです。

目標や未来に向けての歩みにぶれは無いのですが、
心身のバランスにおいては
常に危うい限り。

どうも暴れ馬の性質を持っているようで、
時々どうしょうも無いほどに暴れだし、
爆走しようとします。


それに追従しようと
体は懸命に頑張るのですが、

鎮まって観てみますと
むちゃくちゃな扱いを受け
本当に気の毒です。


母の言葉が想い出されます。


「いくら元気だからといって、使い切ってしまうと壊れるよ!
そのような使い方しか出来ない者は、到底賢いとはいえません」


仰せのとおり。



新しい命の誕生に向け
ご夫婦に
繋がることの大切さを説いている私。


心も
体も


そして

二人の間も。


授かると云うことは
ダイジェストに繋がる行為をも意味します。


「私不妊治療をしているので、夫と関係を持たなくても授かることが出来ます」


今私の頭から離れない衝撃の一言です。


この言葉が常に頭をぐるぐると駆け巡っております。


医師でもなく
ドクターでもなく

ただのヨガ実践者である私に、


果たして何が出来るのかと。


心のありようを見つめ続けて半生が過ぎました。
私の生きてきた歴史そのものが
学びであったと想います。


体験を通して
言葉には力強さが備わりましたし、
生き様を通して
語るのを許されるようになりました。


私に不足しているのは何なのかと自問自答する日々。


若い方々が少しでも
幸せ感を膨らませて生きられるような、
自ずからそれを選び取れるような、

命の神秘と奇跡に
心からの関心を持ち、


今ある自分が
そのようにして生まれいで、

祖先や父母の願いは
あなたの幸せ
それだけであることを
どうぞ心に留め置いて忘れないで下さいと。


アナタの愛する人を
守れる意思と気力、体力を備えるために
自分は
どうありたいのかを探って頂きたいと
切に願い続けているのです。



新しい朝の始まり

虫たちの合唱だけが
白いヴェールをまとった時の向こうから聞こえてきます。



最後になりましたが
7月20日の出版記念講演には
沢山のご参加を頂きまして
ありがとう御座いました。


予想を遥かに上回るご参加で
会場が非常に窮屈な状態になり、
思うように体を動かせなかった方々もおられましたこと、
この場をお借りして
深くお詫び申し上げます。

そのような状況にも関わらず
感謝のお言葉を沢山頂戴いたしましたこと
心から

ありがとうございました。