おはこんばんは、今日もやる気がないのにジムで動き出した途端とバリバリ1時間経っていたちゃんちかです。
流れが停滞してるときは体を動かすことですね。
さてさて先日私の親の状況を大まかにお話ししたかと思いますが、
現段階での私と、私のアメリカの家族、日本の兄二人、そして母と父とで決めたことを書き留めておきたいと思うのですがその前に父のことから書いておきます。
(長文の記録になりますのでご興味のない方はスルーしてください)
父はレビー小体型認知症と診断されています。
主な症状は
せん妄(例えば、ハンガーにかかっている服が人に見えたり、戦争を経験している人であれば戦争が終わってないと妄想したりなど。)
パーキンソン病を併発するので動きが小刻みになる
よって寝ている時間も多くなり動きも鈍くなる、寝ている時間が多いので頭の中もシャキッとしないから寝る、の繰り返しかなと思います。
2年前のある夜中に母曰く、いきなり父がバタバタと物音を立てたかと思ったら、玄関に仁王立ちになってすごい形相で怒り出したので怖くなり、兄に電話し助けを求めたとのこと。
その後しばらくしたら落ち着いていたらしいのですが、
父曰く、「アメリカ兵が来たから追い出す」とものすごい剣幕だったのだそうです。
このことを書くだけでも今から綴る父の生い立ちを思うと涙が出るのですが。。。
父は沖縄で生まれで戦争を経験しています。
1939年生まれの父は兄2人姉1人の4人兄姉の末っ子でした。(本当は5人でしたが妹は幼少時に死去)
沖縄戦が激しくなった1941年から終戦の1945年はまだ小さい子供です。
だから米兵たちから隠れるように暮らしているのが日常だったわけです。
父親(私の祖父)は戦艦に乗って出掛けたまま、海南島あたりで船が沈没し帰らぬ人となったと記録されています。
2018年と2022年に私の家族と(2022年は長女がコロナにかかり旦那と長女は行けず)両親を連れて、年老いて思い残すことがないように自分の生まれた土地をもう一度、お墓参り、父の兄姉に会うというのを目的に沖縄へ行きました。
2022年の訪問時、本当は食事会を予定していたのですが
沖縄では私たちが行った週末は(2022年7月20日頃)コロナ警報が出ていて、人と会うのも憚れる、しかもうちの長女がコロナ発症したので潜伏期間で移っていたら大変とキャンセルさせていただいたのです。
そんな中、父が私のいとこに頼んで読谷村の何処かへ連れて行って欲しいと頼んでいたそうでいとこから「どうする?」と連絡があり、私が全部を仕切り、車が一台しかなく移動もしなければいけない状況で勝手に行動する父にものすごく怒ったんですが
落ち着いて話を聞くと、
読谷村の松田小学校の近くに行きたい。
なぜ?=自分の一つ年下だった後輩がどうしてるか会いに行きたい。
約束はしてるのか?=約束してない
どこで会おうと決めてるのか=決めていない
この時点では話が不可解すぎて合点が行きませんでした。
でもやはり父の兄のところへはお仏壇もあるし、おじさんおばさんには会っておきたいのでお邪魔させていただきました。
年上のお兄さんは流石にいろいろなことを覚えていて、読谷村の松田小学校の近くのジャングルに2家族くらいと一緒に隠れて暮らしていた。
その時の子供のことだと思うと。
そのジャングルは今や軍用基地になっていて一般人は立ち入りできない、とのことでした。
私はその後に色々聞いておいた方がいいと父に聞いてみたりしたのだけれど小さいから覚えてないのか、辛い話はしたくないのか、昔のことすぎて覚えてないのかわからないけど、父は
「もう昔の話はいいんじゃないか」
と言ったのでそれ以上聞くのはやめました。
この時の旅は、両親の思い残しをなくすというのが旅の目的であったので、
翌日、読谷村の松田小学校だけを頼りに地図を調べて運転して行ってみました。
読谷村は宜野座市に名前が変わっていましたし、勿論戦時中とは似ても似つかない付近の状況ですが校門まで行って写真は撮ってきました。
話が長くなりましたが、父のこれらの出来事があったからせん妄で昔の強烈な思い出が出てきたのが戦争、アメリカ兵だったのがすごく合点がいったということです。
そして話は戻りますが、
年をとると関節が痛むのはよくある話で漏れ無く母は50代に両膝を手術し、リハビリをバリバリ頑張った成果があり健脚ですが、父は痛みがありながらも手術をすると働けなくなるからと先延ばしにし続けてきました。
もともと自転車を漕ぐのが非常にゆっくりな人だったんですが、そのゆっくりさが増してバランスを崩し転ぶことも増えました。
父は70代後半まで働いていたのですが仕事の契約が打ち切りになった時からやはり、寝てる時間が多くなった気がします。
父はもともと
「男は死ぬまで働くもんだ」
という昭和の男でしたので仕事ができなくなったことで自分の生きがいもなくなったのではないかなと思います。
やはり社会に貢献している、自自分が必要とされているということは、幾つになっても大切な生きがいになりますよね。
父には趣味らしい趣味も無かったので尚更だったと思います。
その上、膝を手術し、リハビリを嫌がったので痛いまま、要は不自由なままになり余計に行動が減り、筋力も落ち、動きがゆっくりに、となっていたのですが、今から考えるとパーキンソンも発症し始めていたのかもしれないですね。
今まで仕事でいなかったご主人がいるようになって家庭不和になる、というのはよくある話でうちも母が寝てばかりの父にイライラしていて自分がそうなりたくないからジムへ毎日出かけるという毎日でした。
父のせん妄の症状が起きてから病院で調べて、レビーと診断されてから父は毎週訪問診療で先生か看護師の方が来てくれるようになりました。
でも昨年に入ってから急に父が自転車で出かけては転んで起き上がれず、救急車、または警察の車で送ってもらったり、見ず知らずの方が家まで送り届けてくださるということが週に3回くらい頻発するようになったのです。
おりしも母が20年来通っていたスポーツジムが閉鎖になり、他のジムへ行ってみたものの、警察から呼び出し電話がかかったり、以前と比べて遠方すぎるのと、新しい施設、新しい人、新しいルールに80代になって対応するのは大変だったのか2ヶ月で退会しました。
そこから母は父がちゃんと帰ってくるのか毎日やきもきし、不安にかられるという日々で心身ともに疲弊して行ったのです。
ここから続きは母の状態に入っていきますので次の投稿で綴ろうと思います。
長文お付き合いくださりありがとうございました。
私のように遠く離れた年老いた親を持つどなたかの何かのきっかけになれれば幸いです。
そうでなくても私の老いゆく両親のことを記録として綴っておこうと思いますのでお付き合いくださり感謝いたします。
ミネソタより愛を込めて。
ちゃんちか