こんにちは、昨日の殺陣(タテ)の練習とその目指すものにワクワクしすぎてしまっているちゃんちかです。
役者志望、ミュージシャン志望の方はたくさんいらっしゃると思いますし、目指していた方もたくさんいらっしゃると思います。
私事ですが、
私は15歳で養成所に入り、16歳から学業優先ではありましたが、撮影のために学校を休んだりすることもたまにありました。
そのためになんでもいつでも融通が効くように、大変じゃないようにという生き方をしてきました。
大学ではチアリーダに入っていたんですがやはり撮影と試合が重なることもあり、団体競技で迷惑をかけると分かった時点で退部しました。
アルバイトはまず、芸能活動をしているのでオーディションや撮影が入った時は休む等了解を先に得て雇ってくれるところ、スケジュールを決められるパーティーコンパニオンなどもしました。
関西から上京してからはレッスンも週何度か受けに行っていたり、オーディション、撮影もあったので近所のパン屋さんで午前中働いていました。
その他先輩俳優さんの紹介で男性たちに混じって空調屋さん、ホームクリーニングのバイトもさせていただきました。
でも絶対にやらなかったのが、夜の仕事、所謂スナックなどお酒の相手をする仕事です。
なぜやらなかったのかというと、ある有名にドラマプロデューサーさんから、
「水商売はしないほうがいい、私生活を大切に、私生活は顔に出るから」
と言われたのが大きいです。
大学時代にパーティーコンパニオンをした時も、きっかけはスキー用品を買うのにお金貯めたいから、の目的だったのが短い時間で時給がいいのと、一緒に働くお姉さんたちも優しかったので続けていましたが、やはりお酒の出るところは嫌な男性にもたくさん絡むきっかけになりますから、これは良くないなと思っていたところ、撮影とパーティーの仕事が重なり断ったところ社長と意見の相違があったのでやめるきっかけになりました。
上京しようと決めた時は大学生でしたが朝は惣菜やさん、昼学校、夜は居酒屋さんでバイトしてお金を貯めました。
いろんなイベントも仕事が入ったからと優先してきました。
せっかく母が作ってくれた成人式の晴れ着も撮影が入ってしまったため着れませんでした。
それはとっても母にとってがっかりさせただろうなと今でも胸が痛みます。
これ!笑
振袖を着れなかったときの撮影。
高校生役で宝塚映像制作「学校の怪談」妖怪テケテケ
小中監督が東京から撮影にいらしてました。
私はクールなゴトミキという役でした、懐かしーーーーーー
振袖はそのあと卒業式と、仕事で知り合ったスタイリストさんの撮影モデルとして撮影していただきましたが。
振袖、娘たちが着てくれたら嬉しいんですがどうでしょうね・・・。
アメリカに来てモデルの仕事をしてもう15年くらいになりますが、子育て中心だったのもありますがやはり基本は職探しをしても融通の効く仕事となるとなかなか上司の理解などがないと難しいのかなと思いますよね。
それもあってコロナ禍で仕事もプライベートでもメンタル的なことも全てがどん底だった時なので在宅でまずできること、とスキンケアの仕事を始めました。
そして自分の心を癒すために、とにかく再起するためにコミュニティに入り自分を認めてあげること、私にも価値があるんだと学んだりする時間になりました。
俳優、モデルの仕事ってはっきりいって他人の価値観で全てが進行していきますので。
外見で判断、中身はそのあとというところが特にモデルはあると思います。
だから体重、スリーサイズ、などの標準化にはみでたら失格、肌も美白、とか日本て本当に正直めんどくさかった!笑
アメリカに来て、とにかく自分はアジア人というカテゴリー、肌の色、髪の色、目の色、など皆違うから基本的にという概念がない。
あの足の長さになりたくても、あのキュッと上がったお尻になりたくても、あの細い柔らかそうなウェーブ髪になりたくても基本なり得ないんですよ。
だから無理しなくてもいい。
いや、無理したってどうしようも変えられないものが根底にある。
だから大切なのは、
私という存在を偽らずに出すこと。
あ、あの人素敵だなと思うことはあっても、
あちらも自分をそう思ってることって結構ある。
こんなメンタルになるまでに50年近くかかっていますけどね
今私がやりたいことのためにやっているのは
自分が好きな自分でいられるよう、毎日最善を尽くすこと。
やらないようにしていることは
言い訳、後悔をするような言動、ごまかし
相手や状況は自分の力では変えられないからこそ、
自分に言い訳せず、自分の生きたい人生を生きるにはどうしたいいのか、
できることをコツコツやっていきたいなと思います。
読んでくださった方がご自分のやりたい事ができるようになりますように。
ミネソタより感謝を込めて
ちゃんちか