2 グルとは?① | Yoga Bija

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 こんにちは ひろみです。

シヴァーナンダさんの弟子への手紙です。弟子を娘にしてみました。

「わたしは確かにあなたを愛しい娘として受け入れました。あなたに奉仕します。あなたを導きます」

帰ってきたら言ってみます。どんな顔するでしょう?

 

 アーチャーリヤとは?

 グルというのは、「アートマン」(真実の自己)に関して単に理論を教えたり実践の指導をする人のことをいうのではありません。そのような人はアーチャーリヤ(教師、先生)と呼ばれます。

 わたしたちはアーチャーリヤから、「アートマンに関する知」を学ぶことはできますが、それはあくまで「アートマンに関する知」であって、「アートマンそのもの」ではありません。もちろん、そのような知識もたいへん重要であり、もしそういった知識がなければ、間違った方向へ導かれてしまうことさえあります。

 書物に記されたものが「アートマンそのもの」でないのと同様に、実践もまた「アートマンそのもの」ではありません。知識や実践だけで、「アートマンそのもの」にまで導けるものではありません。

 しかし、これらの知識も、それを授けてくれるアーチャーリヤも、たいへん重要です。『ヨーガ・ヴァシシュタ』という聖典の中に、このことに関する興味ある話があります。

 聖ヴァシシュタは言っています。

「アーチャーリヤは『アートマンの知』そのものを与えてはくれないが、アーチャーリヤなしでは『アートマンの知』を得ることはできない」

 アーチャーリヤというのは「アートマンに関する知」や「自己実現に関する理論や哲学」を理解しているだけではなく、実践の指導もしてくれますし、どのような実習がよいかを勧めてもくれます。そして、尊敬の念をもって接すれば、実践中に起こるさまざまな障碍をとり除いてくれることさえあります。

 アーチャーリヤという言葉は、わたしたちが一般社会で普通に使っている、いわゆる「教師」という言葉とも少し異なるものです。ここでいっている「教師」というのは、どこかよそよそしく、打ち解けることもなく、教室の中を歩き回っては自分の不満などを吐き出すようにして言う人のことです。

 インドには昔から、グル・クラ(グルの家)と呼ばれる、師と弟子とが一緒に暮らすシステムがあって、そこでは何のよそよそしさもなく、師から弟子へと知識や学問が伝えられたり、実践の指導が行なわれてきました。そこには、お互いの深い理解があると同時に、解放感のようなものもあります。これは、精神的なつながりが何もない、今日の学校や大学における「教師と生徒」の関係とはまったく異なるものです。

 

 アーチャーリヤと弟子との関係

 英語では生徒や弟子のことを一般には「student」と言いますが、「pupil」という言い方もあります。「pupil」という言葉にはまた、「瞳孔、ひとみ」という意味もあります。太陽の光のもとに出れば瞳孔(pupil)

は閉じますし、反対に、暗いところに行けば瞳孔は開きます。これと同じことがアーチャーリヤと弟子との間にも起こるのです。

 たとえば、もしだれかが聴衆を前にして銀行を襲う方法をあれこれ語ったならば、退屈などまったくしないでその話に夢中になるでしょう。しかし、「ウパニシャッドの智慧」などを語ろうものなら、瞳孔どころか、瞼さえ閉じてしまうのではないでしょうか。

 つまり、アーチャーリヤが光り輝いでいれば、もうそれ以上の光が入らないように弟子は瞳孔を閉じてしまいます。反対に、もしアーチャーリヤが暗く、おかしく、奇妙な人であれば、瞳孔はしっかりと開くのです。このことから、くだらないつまらないことのほうが、価値のあることよりもずっと簡単に吸収しやすいということが分かると思います。「pupil」とはそういうものです。

 

 グルデーヴ・シヴァーナンダは、そのことをちゃんと分かっていたので、映画や劇場に行ったり刺激的な生活を送りたいという大衆心理や、若い求道者たちの気持ちをも理解していたのです。もし、彼らを無理やりヴェーダーンタの教室に入れたとしても、おそらく眠りこんでしまうであろうということは分かっていたのです。

 そこで、グルデーヴはおもしろい方法を考え出されました。それは、ウパニシャッドの中の対話や討論を、実際に演じてみせるというものでした。すると、いつもなら眠ってしまう彼らも、ウパニシャッドの教えが説かれると坐り直し、どう展開していくのか、じっと見入っていたのです。これがグルデーヴの行なったとてもユニークな方法でした。その後、これらの経験をもとにして、だれでも参加したり試したりすることができる「ヨーガ博物館」が創られました。

 

 わたしたちが依然として教える者と教えを受ける者との関係でいるかぎり、二人の間には、単に情報や知識(information)の伝達があるだけです。

”information”とは、あなたの中に(in)、ある形をつくりあげる(formation)という意味です。これらの知識や情報の断片は、徐々にあなたの中に入りこんで形あるものになってゆきます。そして、あなたがその形に十分に満足してしまったならば、あなたは成功することはありません。なぜならば、あなたはその知識によって、あるイメージをつくり、自己実現に関して、そのイメージを真実として扱うようになってしまうからです。

 もし、あなたが自分の中でつくられたこのイメージに夢中になったならば、人からさまざまな理論や教説が伝えられたとしても、自分のイメージに永遠にしがみついて、それから離れられないでしょう。あなたは一所懸命に自分勝手なイメージをつくりあげ、その中であらゆる変化に抵抗するようになります。そうしているうちに、やがてあなたは失敗してしまうでしょう。

 しかし、この自分勝手なイメージがつくられたとしても、それが単にアートマンについての知識だけだと悟ることができたならば、知識を求める段階は終わって、あなたの中に魂が入って智慧の人となるのです。そのときあなたの前にだれかが現れるでしょう。その人がグルなのです。

『イーシュヴァラ・ウパニシャッド』の中に謎めいたマントラがあります。

 

 「無知」を崇拝する者は、地獄に堕ちる。しかし「知識」を崇拝する者は、より恐ろしい地獄に堕ちる。

 

 グルデーヴの弟子に対する考え

 インドを旅していると「わたしはお前のグルだ」と言って近寄ってくる大勢の人に出会うと思います。

 しかし、グルデーヴはそのようなことは一度も言われたことはありませんでした。その代わり、時どきこう言うことがありました。「お前はわたしの弟子だよ」とか「彼はわたしの弟子だよ」と。

 現在、このシヴァーナンダ・アーシュラムにいる年配の弟子たちの中には、グルデーヴから、次のような手紙をもらった人が何人もいると思います。

「わたしは確かにあなたを愛しい弟子として受け入れました。わたしはあなたに奉仕します。あなたを導きます」

 グルデーヴに「わたしは確かにあなたを愛しい弟子として受け入れます」と言われたとき、あなたはきっと、グルデーヴに自分の気持ちをもっと素直に伝えればよかったと思うでしょう。それはグルデーヴが望んでいることでもありました。

 グルデーヴ・シヴァーナンダに尊敬と崇拝を込めて、わたしはここで皆さんに言っておきたいことがあります。それは、グルデーヴは単に弟子を励ますつもりだけでこのように言われたのではなく、実際、心から本当にそう思っていたのだということを。

 グルデーヴはまた「わたしはあなたに奉仕します」と言われていますが、グルが弟子に奉仕したり、弟子がグルの奉仕に支えられているなど、聞いたことがありません。

 このことからも分かるように、グルデーヴは、グル・ビジネスなどとうの昔に捨ててしまっていたのです。グルデーヴは自分のことをグルだなどとは決して思っていませんでした。自分のことよりも、いつも弟子のことを考えていたのです。

 

『シヴァーナンダ・ヨーガ』  成瀬 貴良 編訳

ひろみ