異色の内務官僚「生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事―」 | あなたの知らない韓国 ー歴史、文化、旅ー

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 本日から大阪は十三の第七芸術で昨日(27日)から公開されているドキュメンタリー映画を見ました。監督は「米軍が最も恐れた男カメジロー不屈の生涯」の佐古忠彦氏。1945年1月から5ヶ月間、戦前最期の沖縄県知事をつとめた島田叡氏が主人公です。

 

 鉄の暴風と言われる米軍の沖縄攻撃、県民全員に玉砕を強いる軍部のすさまじい圧力の中、県民の立場に立ち、死ぬな生きろとよびかけた希有の人です。

 

 
 
 

 戦前の県知事とは県民による選挙により選ばれた人物ではなく、内務省の辞令ひとつで送られてくる国家官僚です。その中で民衆に寄り添いながら職責を果たそうとした強い良心の人でした。

 

 彼は沖縄出身ではなく、神戸市須磨区出身。学生時代は野球で活躍し、東大卒業後、内務省に入庁します。しかし各地の県組織のトップはつとめるものの、本省勤務は一度も経験しない異色の存在だったようです。その要因としては、それぞれの県で県知事としての立場を重視し、中央からの無理難題をうけつけない硬骨漢だったのです。現在の知事でも必ずしも県民の方向を向いていない人が多い中、素晴らしいことです。

 

 沖縄県知事の辞令をうけとった1945年は米軍の攻撃が沖縄に迫り、行けば生きて帰れないと言われた時期に、「若者ならば赤紙一枚で徴兵されるのに、自分がことわれば卑怯者になる。自分は死にたくはないので、誰か他人に代わりに行って死んでくれとは言えない」と決意が固かったそうです。

 

 沖縄では軍部が民衆を巻き込み、玉砕戦術をとろうとする中、決死の覚悟で県民を守ろうと奔走します。台湾から食料調達をはかるとともに、県民を県外に疎開させるなどの手を尽くします。

 

 ただ本人に関する資料はあまり残っておらず、写真もさほど残っていません。しかし彼のことを記憶している人は多く、映画は当時の情勢をしめす映像や、関係した人の証言をもとに進みます。本当に困難な情勢の中でも、中央から派遣された立場であるにもかかわらず県民の立場に立った行動には本当に感動します。素晴らしい行政官です。組織の中で板挟みになりながらもいかに自分の職分を果たすかを考える参考にもなると思います。

 

 人々に生きろと呼びかけた人ですが、混乱した状況の中で行方も不明で、遺体も発見されていません。もしこの人が生き延びていたら、戦後の復興にも大きな力になったでしょうが、残念です。

 

舞台上の佐古忠彦監督

 

 

 この日は映画終了後、監督の舞台挨拶もありました。監督は幼き頃から小椋佳の大ファンで、彼に主題歌を頼み、「いきろ」という楽曲が生まれたエピドードも紹介されました。これも涙が出そうないい曲です。是非劇場で映画とともにお楽しみいただきたく存じます。