大坂にもこんなすごい人が 木村蒹葭堂 | あなたの知らない韓国 ー歴史、文化、旅ー

あなたの知らない韓国 ー歴史、文化、旅ー

歴史や文化などを中心に、日本・韓国や東アジアに
またがる話題を掘り下げながら提供したいと思います。

歴史、文化、韓国語、日本語

    皆さん、江戸時代の大坂には木村蒹葭堂という超有名人がいましたが、どんな人物かご存知でしょうか。

 

   えっ、名前も聞いたことがないって、いけませんね。この人は大坂の町人ですが、当時の朝鮮にまで名が知られたすごい人なんです。

 

  ご存知ないようなので、小生、浅学ながら木村蒹葭堂の世界へご案内させていただきましょう。

 

 

谷文晁筆 木村蒹葭堂像

 

 

   木村蒹葭堂は元文元年(1736年)から享和2年(1802年)までを生きた大坂の人です。名は孔恭といい、本業は北堀江で営んだ酒造業でした。屋敷の井戸から出た古い芦にちなんで蒹葭堂と名乗ったそうです。父や親類が本草学(薬草を主体とする薬学)に強い関心があり、その影響から本草学を学んだのでした。

 

    詩文にも造詣が深く、自宅で詩会を開き、彼の収集した書画典籍、薬草の標本は国内なのみならず海外にも知られ、訪問客が絶えなかったそうです。研究のために収集した典籍の中から厳選した二十数種類は自ら複製し、蒹葭堂版と呼ばれています。

 

   彼は朝鮮通信使とも交流がありました。宝暦13年(1763年)の通信使で正使書記として来日した成大中との交流には心温まるものがあります。蒹葭堂のサロンの一行と成大中が出会ったのは、通信使の宿所であった北御堂でした。蒹葭堂の名はすでに九州で耳にしていたようです。二人の出逢いは短いものでしたが、優れた詩文をもっての交情は互いに相照らすものがあったのか、一生忘れ難いものとなったようです。蒹葭堂は大中のために「蒹葭堂図」と「浪速春暁図」を自ら描くとともに、印も彫って渡したようです。

 

   学問や芸術を主体にした交流は、互いを一層深く結びつけ、互いに忘れ難いものにしたとともに、木村蒹葭堂の名を朝鮮にまで知らせることになったのです。

 

   木村蒹葭堂の活動の背景には、近世大坂の学問や芸術の水準が非常に高かったことがあります。当時の大坂の学芸は京都や江戸をしのぐものがありました。その原動力となったのは商人の倫理観です。大坂以外では、大坂商人はケチとかがめついという印象で語られることが多いと聞きます。

 

   しかし近世大坂を支えた商人たちは、普段の生活は質素であっても学問や芸術には出し惜しみしない高い志の人が多かったようです。

 

    大坂というと富永仲基や山片蟠桃を輩出した懐徳堂や、福沢諭吉や高松凌雲など数多くの英才を輩出した適々斎塾(適塾)もありますが、これらも商人の助力がなければありませんでした。経済人たちがが単に自分の懐を肥やすことだけに汲々としていたら、文化史に名を残す繁栄がなかったのはもちろん、通信使の面々の目に印象を残すことはなかったでしょう。

 

 

木村蒹葭堂邸跡

 

木村蒹葭堂邸跡と現在の大阪市立中央図書館

 

 

   「木村蒹葭堂邸跡」の石碑は地下鉄鶴見緑地線西長堀駅を下りたところにあります。偶然でしょうが、敷地は大阪市立中央図書館が立っています。学問や芸術で友情を広めた優れた町人学者の屋敷跡が、市民のための学習の場になっていることに不思議な縁を感じます。彼に恥じないように、市民たちが広く学術や芸術に親しめる都市であり続けてほしいと思います。

 

 

追記:大阪の朝鮮通信使関係の記事一覧です。ご覧いただければ幸いです。

 

川口居留地と川口教会 ー朝鮮通信使と大坂 番外編ー

https://ameblo.jp/yoa1003/entry-12457718802.html

 

北御堂を訪ねて ー朝鮮通信使と大坂(その3

https://ameblo.jp/yoa1003/entry-12456962786.html

 

九条島と朝鮮通信使朝鮮通信使と大坂(その2)

https://ameblo.jp/yoa1003/entry-12456134987.html

 

あゝ無情 大阪に残る悲運の通信使青年の墓 ー朝鮮通信使と大坂(その1)ー

https://ameblo.jp/yoa1003/entry-12455696222.html