あなたの知らない韓国 ー歴史、文化、旅ー

あなたの知らない韓国 ー歴史、文化、旅ー

歴史や文化などを中心に、日本・韓国や東アジアに
またがる話題を掘り下げながら提供したいと思います。

歴史、文化、韓国語、日本語

 
 皆さんこんにちは
 
 今日は忠清南道扶余にある遺跡をご紹介します。扶余とはどういうところかご存知でしょうか?古代朝鮮三国の中の百済の都があったところです。
 
 古代朝鮮三国とは百済、新羅、高句麗の三国のことで、高句麗は朝鮮半島北部から中国東北地方、新羅は半島南東部、百済は半島南西部で栄えたのでした。
 
 百済は都の位置により三期に分かれます。前期は漢城(現代のソウル松坡区、江東区周辺)で高句麗に攻められて落城すると、熊津(現在の忠清南道公州)に遷都し、武寧王を出した中期百済となります。最後の後期百済の首都が扶余なのです。
 
 
 
 
 扶余の町の中心にある定林寺跡の入口です。

百済は仏教を尊崇し、当時の日本にも仏教をはじめとする、宗教や学問、技術を伝えたことで有名な国です。

 

 

 

 

 

 施設配置図です。西側に伽藍跡があり、東側に博物館があります。

 

 

 

 

 定林寺跡の伽藍配置です。中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ形になっています。

 

 

 
 
 手前にある石塔がこの寺の塔、その向こうの芝生で青いところが金堂、金堂の背後の建物が講堂となります。

 

 

 

 

 五重石塔です。石造塔でありながら木造建築の様相を忠実に真似たものだと言われています。

 

 

 

 

 

 

 金堂跡です。現在は何も復元されていませんが、本来の本尊はここに安置されていました。

 

 

 

 

 復元された講堂跡です。この内部には高麗時代のものと思われる石仏が安置されています。

 

 

 

 

 講堂内部に安置されている石仏座像です。火を受けて摩耗しており、かろうじて仏像らしい外郭と台座のみが残っています。胸の前に上げた両手の形態から毘盧遮那仏と推定されています。扶余を象徴する石仏でもあります。

 

 

 

 

 

 

世界遺産 百済歴史遺跡地区定林寺址
 
 

 

 

 伽藍の横には博物館も開設されています。

 

 

 

 

 定林寺址の復元模型です。塔の周りを僧侶などの人々が取り巻いている様子です。

 
 
 
 
 
 金堂の詳細な復元模型です。細部まで細かく復元されています。
 
 
 
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 いかがでしたか。百済は古代日本と関係が深かっただけではなく、様々な学芸が花咲いたところです。ソウルの喧騒から離れて、扶余でしばし歴史と文化の香りを楽しんで見るのはいかがでしょうか。