目からウロコな話 | 難治性慢性疼痛の毎日(線維筋痛症と複合性局所疼痛症候群)Byアキ

難治性慢性疼痛の毎日(線維筋痛症と複合性局所疼痛症候群)Byアキ

2012年、線維筋痛症と複合性局所疼痛症候群を発症、それよりも前にデパス&ソラナックス&ロヒプノールを服用していた。病気発症に心当たりがないためこれら症状はベンゾ薬害だと私は断定。2019年、旦那と死別

たまに見かける愚痴として、地域の町内会や自治会、子ども会や学校のPTA等での、それら主催で行われる活動の中で、半ば強要される炊き出しを作らされる件。



カレーや豚汁を煮込んだり焼きそばを炒めたりおにぎりを握ったりする件。しかも大量に、大量に。



大体が、準備が大変とか大量過ぎて嫌になるとか、そもそもこんな強要間違っている!とか、そうした嘆き。



あるTwitter投稿主がそれに関して目からウロコな内容を投稿していたので掻い摘んでご紹介させて頂く。



今回の北陸地震で、これまでのそうした活動が実に役に立ったということを投稿していた。



どういうことかというと、いざ被災して行政からの支援が届くまでに何が行われていたかというと、被災を免れたお宅から食材を持ち寄り温かい食べ物を振舞ったと。



地域の動ける人たちが率先して。



その時に役立ったのが、これまで培ってきた『大量に食事を作る』という行為だそうで。



こういういざと言う時の為に、これまでの活動に意味があったのだと、改めて思い直したという投稿内容だった。



それまでは嫌々ながらもそうした活動に参加してきたが、これからはそういうことも意識して活動したいし、参加を呼び掛ける際もそういうことを訴えると、参加人数も増えて尚且つ参加する方々の意識も変わり効果的なんじゃないかと結んであった。



長い投稿だったが一通り読んでみて物凄く納得した。まさに目からウロコだった。



地震大国と叫ばれ続けてきた日本で昔から続いてきたそうした慣習は、何も無闇矢鱈と行われてきた訳じゃなかったんだと。



いざ何か起こった時にこうして役に立つんだと。



もしかして、気付いてないだけで他にもそういうことが沢山あるのかもね。



現代日本ではどうしてもそういう活動が敬遠されがちで、若い人を中心に参加しなくなってきている。



かくいう私も、子どもの頃はともかく大人になってからそういう活動に参加したのは片手で数えるほどだ。



とにかく準備からして大変だった。



仕事と並行してやらなければならないし、活動出来るのは休みの日だけしかない。



私の場合、ある地域の敬老会で炊き出しをするボランティアだったんだけど、移動だけで行きが3時間、帰りは渋滞に巻き込まれて6時間もかかった。



朝早くに出発して帰宅したのは日付けが変わる頃だった。



勿論、活動そのものは馬車馬のように働いてだ。



亡き夫の付き合いで行っていたボランティアだったので、ボランティア活動そのものは好きだったが移動が凄く嫌だった。



車移動が嫌いとかではなく、疲れで助手席でつい寝てしまうと、亡き夫が凄く不機嫌になったからだ。そりゃそうだよね…。



亡き夫の顔を潰してはいけないと、人一倍動いた。



『あとはもういいから少し休んでて』と亡き夫に言われるまでがむしゃらに。



それもこれもまだ若かった(30歳前後)から出来ただけで、今もし健康でも、やれと言われて出来るかどうか。



『遠いところ本当にありがとう』と高齢者たちにニコニコ笑顔で挨拶され感謝されまくり、帰りに温泉にタダで入れて(寂れた温泉街だった)、ボランティアが一段落した頃にキンキンに冷えたビールが呑めたのが何よりの思い出だった。



亡き夫は運転があるので呑めなかったけどねw



確か約100人分の仕込みをしたのを覚えてる。会場撤収まで終わらせてだ。



今となっては、どういう手順だったか細部まで思い出せない。なんせ約20年前のこと。



こういうことは毎年定期的に参加しないと忘れてしまうと改めて思った。ただでさえ記憶力が怪しくなってくるお年頃なのに。



話をその投稿内容に戻して…。



地域内での交流が薄れがちな現代で、田舎特有のしがらみが敬遠されがちな現代で、なんとか、嫌な思いをせずにそういう活動を続けられないものだろうかと思いを馳せる。



無意味なことをやってるんじゃない、ちゃんと意味があって、いざという時の為に役立つんだよと実体験出来るのが一番だが、なるべくならそんな体験はしたくないのが本音よね。



当然の事ながら経験しないのが一番だしね。



でも、特に地震に関してはライフラインが復旧するまでどう生き延びるか?というのが喫緊の課題になる。



都会ではとても無理だけど、山奥に行くと湧き水が豊富だったりして、その山の持ち主の許可を得て水汲みをしてきて、飲用には適さないが顔を洗ったり歯を磨いたり皿を洗うくらいならとても重宝する。



煮炊きは焚き木で火を起こし…ってね。



日頃からそういうのに慣れてないと、全くの素人は火を起こすことすら不可能だ。



人間なんだかんだ言って、最後は人と人との交流があって生かされている。焚き木を拾うことや湧き水を汲むことひとつとっても、山の持ち主の顔を知らないのでは困る。



そういう交流が疎ましいことも分かる。分かるが…。



そうした日頃からの活動がなんとか有意義なものに出来ないかと心から思う。



これを書きながら思い出したけど、好きで観ている時代劇の中のひと幕で、火事で焼け出された人たち向けに有志が炊き出しをしているシーンを見掛ける。



結局はこういうことなんだよね。困っている時は相身互い。



いつ何時、自分が当事者になるかも分からない。



何かことが起こってからでは遅すぎるのだ。