いつも読んで下さり、有難うございます。
今日4月14日は、父の命日です。
2004年4月14日に、61歳で亡くなりました。
今日で22年になります。
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長い長い、自分語りになってしまいました。
丸っと飛ばして下さいね。
最後に、写真を載せました。
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最後の写真まで、遠慮なく飛ばして下さい。
(写真は、見て下さると嬉しいです)
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自分語り
私の両親は、あまり上手く行っておらず、
「私の進学」と言う理由もありましたが…「単身赴任(という名の別居)」を、ずっと続けていました。
3人で暮らしたのは、小学生の時までです。
私が大学を卒業して就職した年(家を出て、一人暮らしを始めました)に、両親は離婚しました。
親としての務めは十二分に果たしてくれましたが、「私の自立のタイミング」を待っていたようで、やはり寂しかったです。
母も仕事をしていたので、それぞれが別々に、世帯を持つ形になりました。
悪く言ってしまうなら…
両親は、常に私に気を遣っていましたし、顔色を伺っていたようにも思います。
そして私も両親に気を遣い、やはりどこか、顔色を伺っていたように思います。
二人に好かれるように、良い子でいようと。
どちらの敵でもないし、どちらの味方でもありたかったけれど…
ずっと母と暮らしていましたし、思春期に入ってしまった私には、それが出来ませんでした。
浮気とか暴力とか借金とか、そう言うのではなくて、
恐らく、なんとなくのすれ違いとか、
「色んな細かいものの蓄積」←だったのだと思います。
冷めちゃったのでしょうね、お互いに…。
不仲になって行った細かい原因、子供心に分かる部分もありましたが…。
転勤の多い職業でしたが、
定年後の父は、父方の祖父母と一緒に、熊本市に住んでいました。
年賀状やメールなど、『たまに』やり取りはしていましたが、やはり何処か遠い存在になっていきました。
子供の頃は、めちゃくちゃに父っ子だったのに…。
亡くなる数カ月前に、
「お父さん、もうあまり長くないかも…」と連絡が来ました。
どうすれば良かったのか、今も後悔しています。
当時の私は既に結婚して、関西に在住。
フルタイムでの仕事をしていましたので、毎週末に伊丹と熊本とを往復![]()
(最初はホテルでしたが)父方祖父母の家に泊まって、入院していた父を見舞う生活を送りました。
母への遠慮や、父や父方の親戚との距離感のようなものに戸惑い、上手く同調が出来ずに、徐々に疲弊していきました。
どうしてもっと、上手く立ち回れなかったのかと、後悔しかありません。
せっかくの“与えて貰えたひととき”だったのにな…。
向こうは私を大歓迎してくれましたが、それを素直に受け止められずにいました。
子供の頃に会って以来や、初めて会う親戚たちばかりでしたし、「両親の離婚を、後ろめたく思う気持ち」があったのだと思います。
苦手に感じる姻族の叔父もいましたしね。
父との、空いてしまった時間や距離や穴を、埋めるチャンスだったのにね…
4月11日(日)
熊本から大阪に戻る時に、
『また来週、来るからね!』
が、父との最後の会話になりました。
前立腺がんでしたが、末期の状態。
それでも会話も出来るし、安定していると聞いていたし、普通に元気だったのに…急に状態が悪化してしまいました。
「まだまだ時間はある」「まだ大丈夫」と…、何故か思っていました。
「来週」は有給を取って、今度こそ長く父の側にいよう…そんな風に、考えてもいたのにな。
結局、看取る事は出来ず、またすぐに熊本に向かう事になりました。
4月14日(水)
父の容態が急激に悪化し、臨命終時の状態となった時、熊本に住んでいる叔母(父の妹)が電話をくれて、
「お父さんに、ようこちゃんの声を聞かせてあげて」って…向こう側で、受話器を父の耳に当ててくれました。
私はなんて言ったかな…
『お父さん、明日そっちに行くからね、待っててね』だったと思います。
翌日(4月15日)
朝一番の飛行機で、夫と共に熊本へと向かいました。
父は長男(一人息子)で、下に妹が4人います。
熊本に住んでいた3番目の叔母が、この電話をくれました。
その優しさに、今でも涙が溢れてきます。
「親の離婚に、子供(私)に罪はないよ」と、庇ってくれた人でもありました。
父の最期は、
父方祖母と、この3番目の叔母が看取ってくれました。
あんなにも遠いと思っていた熊本(父)は、伊丹からたったの1時間✈️
そのあまりの近さが、とても悲しかったです。
どうしてもっと早く、この距離を埋められなかったのだろうって…。
こんなにも近かったのにな…。
こんなにも簡単に、何度も行き来が出来る距離だったのに…。
それでも父に会えたこと、亡くなってしまう前に、ひと時の時間を過ごせたことは、幸せでした。
父のお墓は高野山(奥の院の近く)にあります。
所謂、先祖代々の…的なものです。
本来なら、私が継がなくてはならないのかも知れませんが、
1番上の叔母(勿論、結婚していて別の苗字)が、全てを継いで下さいました。
父を看取れなかった後悔があったため、母のことは何があっても絶対に看取る。
そう心に誓いました。
そして2015年1月12日に、母を看取りました。
とても悲しい経験だったけれど、母を看取れたのは、父のおかげだと思っています。
母のお墓は、横浜にあります。
どちらのお墓参りも、もうずっとしていません…。
「墓参だけが親孝行」だとは思いませんが、やはり行ってあげないと…ですね。
良い意味で
両親を反面教師に、結婚相手を選びましたよ
🪞
だからなのか…今のところ夫とは、上手く続いています![]()
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そういう意味でも、両親には感謝しています
幸せだった頃の写真を1枚。
父に抱っこされて、母が撮ったものです。
母に抱っこされて、父が撮ってくれた写真ばかり、数多くあります![]()
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父に抱っこされて、母が撮ってくれた写真は、意外と少ないですね。
父はカメラが好きな人だったので、子供の頃の写真はたくさんです。
古いアルバムの中に、想い出がいっぱい![]()
数日前から、久しぶりに弾いています。
購入は2012年8月…(全音ピースです)
両親を想いながら…
今日は、
「少女だったと懐かしく…振り向く日」を過ごしたいと思います
老化の階段を、転げ落ちる年になってしまいましたが…
📈
この楽譜のプロの演奏です。
14年間ずっと、ファイルに入れたままでしたが、
弾きやすいように、蛇腹🪗にしました。







最後までお付き合い頂き、有難うございました![]()
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イイネやコメントも、本当に有難うございます。

みなさんも、お元気でお過ごし下さい






