清水寺の後はお散歩コース
産寧坂
二年坂・三年坂はともに清水参拝道として作られたもので、
坂と家並みが折り重なって続いてゆく美しい風景は重要伝統的建造物群保存地区に指定されているそう。
だから、いつ来てもこの雰囲気なんですねw
三年坂を産寧坂とも記すのは清水寺の子安塔の安産信仰からだそうです。
早朝のためお土産屋さんもちろんすべて閉まっていますww
こんな写真を撮れるのも早朝のおかげw
普段の日中では人が多くて自分の写真を撮る気になりませんww
二寧坂
二年坂から正法寺への石段を上り詰めると、
八坂の塔を前に東山山麓と京の全景パノラマを見ることができる。
言い伝え
「二年坂でつまずき転ぶと二年以内に死ぬ」
「三年坂でつまずき転ぶと三年以内に死ぬ」
という超怖えー言い伝えは【埋葬地の鳥辺野へ通じる道でもあるため石段であるため】ということで江戸時代の半ばに広く信じられたようで【転んだ時に飛び出た魂を瓢箪が戻してくれる】という転んだ時の裏技を一緒に言い伝えられたので、
石段下の土産店で厄よけの瓢箪を売っているんだとかww
今では「石段坂道は気を付けて」という警句が語り伝えられたものと考えられているものです。
安井金毘羅
御由緒
第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え【藤寺】と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。
第75代崇徳天皇(すとくてんのう) (在位1123~1141年)は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)を住まわされました。
崇徳上皇が保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(現、香川県)で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました。
治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています。
光明院観勝寺は応仁の乱(1467~1477年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。
明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改め現在に至っています。
長い歴史。名前もたくさん変わったのですね…
なので、お祀りしている神様もだんだん増えて?
”源頼政公(みなもとのよりまさ)”
”崇徳天皇(すとくてんのう)”
”大物主神(おおものぬしのかみ)”
の三体です
京都最強の縁切り神社
主祭神の崇徳天皇は、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は古来より断ち物の祈願所として信仰されてきそうです。
悪縁とは
男女の縁はもちろん、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁を切っていただけるそうです
悪縁と切り離されたらあとは良縁に結ばるだけ!!
縁切り縁結び碑
高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石で、中央の亀裂を通して神様のお力が円形の穴に注がれています。
凄いの!!お札がびっしりついていて…結構強い…
今回は切りたい悪縁も思いつかなかったので、くぐりませんでした。
写真撮るのもちょっと怖いww
大丈夫
最終的には悪いものと縁を切り、良き縁を呼び寄せる!!
良縁に結ばれたご夫婦やカップルがお参りされても縁が切れることはありません。
更にお二人がより深くより強く結ばれる御利益をいただけますのでご安心を。とのことなので、行っちゃいけないとかはないので、ご安心くださいww
さーー京都の旅はまだまだ続きます