この日に文章を書くことを、ずっと躊躇っていた。強く意思表示をすることは、潜在的に、誰かの意見を否定することになるのではないかと思っていたから。

意識的ではない発言にしても、反対意見を持つ人から見たら、攻撃だと見做されることもある。誰かを攻撃することは、誰かに攻撃される可能性がある。それがこの世界のルールだと思っていた。


ビンタされたら、パンチで応戦する。それは当然の権利として、子供の頃から暗黙のうちに教えられてきたような気がする。例えば、怪獣と正義の味方が戦うアニメ、子供向けとはいえ、人々の暮らしを脅かす悪者を、正義の味方が正義の名の下に鉄槌を下して撃退する。この構図は見慣れたものだし、今や当たり前のように私たちの意識に擦り込まれてる。テレビのニュースを良く聞いてみると、争い合う片方だけが悪者の様に流布されていることが結構ある。果たして、誰から見て悪者なのか。


この正義対悪の構図を現実の世界に当てはめたらどうなるか。片方が悪者とされ、もう片方は正義の名の下に応戦する。

私たち人類は、幾度戦争を繰り返しただろう。人間は争う生き物だから仕方ない?

そんなはずはない。偉そうなことを言える身分ではないけど、過去を通して私たちは、違うを選択する時にきていると思う。


やられたらやり返す。これしか知らない人達には、テーブルに座って話し合う選択肢が見えない。彼らはそれしか教えられていないから。彼らは憎しみが、元は愛から生まれたものだと知らない。


殴られて殴り返したら、ケンカが始まる。ケンカにせずに解決する方法はないのだろうか。私たちがするべきなのは、例えどんなに殴られても、テーブルに座って話し合いをすると言う、強い決意を持つことかもしれない。生半可な気持ちではできない。きっとやり返すよりも難しくて、想像できないくらい苦難の道のりになる。だけど、唯一、犠牲になった人達の為にできて、未来のためにできる解決方法なんじゃないかと思う。

今度こそ愛に基づく行動ができるか、人類が試されているようにも思う。


なんとか党とか関係なしに、また、日本のことだけでなく、武器を売ってお金の為に、人を傷つけることも厭わない権力者達は、これからの地球のリーダーには相応しくない。私はそう思ってます。

批判したいのではなく、自分のスタンスと意識を整理しておくのが大切なんじゃないかと思う。

批判は争いの種になる。争いをするのではなく、解決の為に話し合いをしないと意味がない。誰がどう考えるのも自由だし、押し付けるつもりもない。

ただ、もし今日考える時の一つの意見になればいいなと思います。愛が基準の世界になりますように。