映画『エクソシスト』

 

 

公開:
アメリカ合衆国:1973年12月26日
日本     :1974年7月13日

上映時間:122分

 

監督:ウィリアム・フリードキン

(William Friedkin、1935年8月29日 - 2023年8月7日) 

米国公開時 38歳

 


 

原作・脚本:ウィリアム・ピーター・ブラッティ

(William Peter Blatty、1928年1月7日 - 2017年1月12日)

米国公開時 45歳

 

 

監督フリードキンは、ブラッティによる神学的な脚本から一切の説明を削ぎ落とし、

ドキュメンタリーの手法で徹底的なリアリズムへと再構築し、この映画は完成しました。


出演者: 
リンダ・ブレア(Linda Blair、本名:Linda Denise Blair、1959年1月22日 - )

米国公開時 14歳

 


エレン・バースティン(Ellen Burstyn、本名: Edna Rae Gillooly、1932年12月7日 - )

米国公開時 41歳

 


ジェイソン・ミラー(Jason Miller;本名 John Anthony Miller、1939年4月22日 - 2001年5月13日)
米国公開時 34歳

 

 

マックス・フォン・シドー(Max von Sydow、本名: Max Carl Adolf von Sydow, 1929年4月10日 - 2020年3月8日)

米国公開時 44歳

 


リー・J・コッブ(Lee J. Cobb, 本名: Leo Jacoby, 1911年12月8日 - 1976年2月11日)
米国公開時 62歳

 


音楽:

マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield, 1953年5月15日 - )
ジャック・ニッチェ(Jack Nitzsche、1937年4月22日 - 2000年8月25日)

配給:ワーナー・ブラザース

この座談会は想像によるフィクション(二次創作)です。
※本記事の構成・対話案の作成にはAI(Gemini)の協力を得ています。

座談会 p1(1974年8月某日 銀座のクラブ)

出席者:
池波 正太郎 51歳(1923年〈大正12年〉1月25日 - 1990年〈平成2年〉5月3日)
遠藤 周作  51歳(1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)
司馬 遼󠄁太郎 51歳(1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)
三島 由紀夫   (1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)

野坂 昭如  43歳(1930年〈昭和5年〉10月10日 - 2015年〈平成27年〉12月9日)
石原 慎太郎 41歳(1932年〈昭和7年〉9月30日 - 2022年〈令和4年〉2月1日) 

M      33歳(1941年 - )
日本のアニメ監督、アニメーター

 

 

悪魔と映像の文法 ―― 『エクソシスト』冒頭、イラク・ニネヴェの衝撃

 

 

 

池波:……いや、驚いた。銀座の喧騒を抜けてこの映画を観た後だと、水割りの氷の音すら、何か不吉な予兆のように聞こえてくる。

石原:池波さん、それは少し感傷に過ぎますよ。ですが、あの冒頭のイラクのシークエンス……あれは凄まじいですね。ブラッティの原作を読んだ時は、もっとカトリック的な、理屈の通った「悪の起源」を説明しようとする饒舌さが鼻についたんですが、フリードキンのカメラはそれを一気に、生理的な恐怖の地平まで引き摺り下ろしました。

遠藤:石原さんの仰る通りだなぁ。原作のブラッティは、どこかで「神の存在を証明するための悪魔」という神学的な整合性を捨てきれていない。しかし映画の冒頭、あの乾いたニネヴェの砂漠……何百人もの作業員がつるはしを振るう音。あれはもはや宗教映画の静謐さではなく、暴力的なまでの「異教のざわめき」ですよ。

 

司馬:私は、あの少年の股越しにメリン神父を捉えるショットに唸らされました。あれは合理主義の目ではない。土地の精霊、あるいはもっとドロドロとした歴史の深淵から這い出してきた何者かの視線です。フリードキンという男は、歴史というものを「文献」ではなく「土塊」として捉えている。そこが原作者のブラッティよりも、ずっと文明の本質に対して冷徹ですね。

 

三島:司馬さん、それは「死」の温度ですよ。ブラッティの書く悪魔は、あくまでキリスト教という法廷における被告人に過ぎない。だがフリードキンが映像化したあのニネヴェの「顔」……埃を払った瞬間に現れる彫刻の顔。あれを見た時のメリンの表情、マックス・フォン・シドーのあの硬直した顔貌は、観念としての悪ではなく、肉体を侵食する美的な腐敗に直面した男のものです。文学が言葉で10ページ費やす「宿命」を、あの監督はブラシ一つで払い落として見せたわけです。


野坂:……まあ、なんというか、ブラッティの原作は、アメリカ人の悪い癖で「理由」を欲しがるんですね。けれども、あの映画の冒頭には理由がない。ただ、そこに「あった」という事実だけを突きつける。イラクの、あの剥き出しの太陽の下で、真っ黒な作業員たちがアリのように地面を這い回っている。あの生命の過剰なまでの蠢きが、逆に死を強烈に意識させる。あそこで見つかったのが「同じ時代の物ではない」というあの一言。あれが効いているんですね。歴史の断層から、間違った指が突き出てきたような気味の悪さなんですね。

M:僕は、あの編集のテンポに戦慄しました。つるはしが空を割り、少年が走り、老いたメリンが喘ぎながら土を掻き分ける。アニメーションの世界でいえば、あれは「空間」そのものが意志を持って動いている。ブラッティは、文字で「パズズ」という固有名詞を説明しようとした。でもフリードキンは、音と色彩のコントラストだけで、それが人類にとって「決して触れてはならぬ異物」であることを観客の網膜に焼き付けてしまった。

遠藤:Mさんの言う「異物」というのは、まさにキリスト教的な「サタン」以前の、もっと古くて凶悪なエネルギーのことでしょうね。メリン神父が岩の中からあの小像を削り出すとき、彼は神父としてではなく、一人の無力な霊長類として震えている。原作では、彼はもっと「信仰の戦士」としての自覚を持って行動しているように書かれているが、映画の演出は違う。彼はただ、自分を飲み込もうとする巨大な「暗黒の古層」を見つめているだけなんですね。

石原:そう、あの演出はデカダンスの極致ですね。ブラッティは脚本も書いているんですが、フリードキンがその脚本から「説明」という肉を削ぎ落とし、骨だけにした。あのイラクのシーンで、言語が「イラクの言葉」であることを貫いているのもいい。何を言っているのか正確には分からなくても、何かが決定的に「終わった」ことだけは伝わるんです。

司馬:この映画の恐ろしさは、西洋文明の象徴であるジョージタウンの邸宅に悪魔が来る前に、人類の文明の揺り籠であるメソポタミアで、その「死の種子」が発掘されてしまうという構成にありますね。ブラッティの筆致は情緒的だが、フリードキンの映像はもっと即物的に、地質学的な恐怖を提示している。あの砂漠の熱気と、あとに続くワシントンの寒々しい静寂。この対比を、映像はたった数カットで成し遂げてしまった。

三島:……結局、言葉は説明するが、映像は出現させる、ということでしょう。ブラッティは悪魔を「語ろう」とした。しかしフリードキンは、ニネヴェの砂塵の中から悪魔を「顕現」させた。我々は、あのスクリーンを通して、本来暴くべきではなかった「世界の亀裂」を覗き込んでしまった、とも言えるんです。

池波:……なるほど。あの埃を払うブラシの音……シュッシュッというあの乾いた音が、今も耳の奥で鳴り止まない。あれは我々表現者が、人間の深淵を不用意にこじ開けてしまった時の音だ。


……映画は、ニネヴェの発掘現場から一転して、市場(バザール)の雑踏へ移る。あそこの切り替えも見事なものです。ブラッティの原作では、メリン神父の内面描写……つまり彼が抱える心臓の病や、忍び寄る死の影を、多分に「独白」に近い形で書き進めていくが、フリードキンはそれを「錠剤を飲む手元の震え」という一点に凝縮して見せた。

 

石原:仰る通りです。あの市場の喧騒、あれは「生」の過剰な横溢でしょう。それに対して、メリンがペンダントから一錠の薬を取り出す仕草の、なんと静かで、なんと死に体に近いことか。ブラッティの原作は神学的な対決を急ぐあまり、こうした肉体的な「衰え」を装置として使いすぎる。だが映像は、ただ震える指先を映すだけで、メリンという男がもはや現世の論理では支えきれない領域に足を踏み入れていることを観客の生理に叩き込む。

司馬:私はね、石原さん、あの「飲み物を運ぶ男」とメリンの視線の交差に、文明の断絶を感じましたよ。メリンはイラクの言葉を解し、土地の文化に同化しているように見えるが、あの震えながら薬を飲む姿をじっと見つめる現地の男の眼差しは、冷酷なまでに「異物」を排除している。ブラッティの原作には、まだ西洋人が中東を「観察」する特権的な視座が残っているが、フリードキンのカメラは、メリンをあの雑踏の中で完全に孤立した、一匹の老いた動物として放り出している。

 

遠藤:司馬さん、その「孤立」こそが宗教的な恐怖の本質なんですよ。私が打たれたのは、メリンが周囲の人々に目を向ける、あの怯えたような視線です。原作のメリンはもっと泰然自若とした聖職者の風格を保っているが、映画の彼は違う。メリンは自分が掘り起こした「何か」が、すでにこの市場の喧騒の中に、あるいは人々の表情の裏側に回折していることを本能で察知している。あの錠剤を飲むシーンは、聖体拝領のパロディのようにも見えます。神の血ではなく、化学物質で辛うじて繋ぎ止められている命の脆さという……。

 

三島:遠藤さん、それは「不吉な予兆」が肉体化された瞬間ですよ。私が震えたのは、その後の金敷を叩くハンマーの音……あの金属音の挿入だ。あれは音楽ではない、呪詛だ。そして、あの白濁した眼を持つ労働者。原作の描写では、あれはもっと象徴的な、あるいは文学的な「不気味さ」の記号に留まっている。しかし、映像であの「色のない眼」を突きつけられると、それはもはや比喩ではない。現実の亀裂そのものだ。

 

野坂:……あのハンマーの音、あれは堪りませんでしたね。カン、カン、という音が、まるで棺桶に釘を打つ音のように響く。でもってあの「片目」ですね。石原さんが言った「生の横溢」の中に、ふっと「死の空白」が混じる。あの労働者が額の汗を拭うという、極めて日常的な動作の果てに、あの白濁した眼球がこちらを、いやメリンを凝視する。ブラッティの原作は、悪魔を「言葉」で定義しようとするが、フリードキンは「視線」で定義した。あの眼は、何も見ていないようでいて、メリンの魂の奥底にある「虚無」を正確に射抜いている。

M:僕は、あの市場のシーンの色彩設計と音響に、フリードキンの冷徹な知性を感じます。市場は極彩色で、生命力に満ちているはずなのに、どこか不潔で、ひどく乾燥している。そこでメリンが立ち止まり、あの白眼の男と目が合う。あの一瞬、世界の時間が止まるような感覚。アニメーションでこれをやろうとすれば、描き込みの密度を変えるしかないんですが、実写であの「異質な存在感」を出すのは至難の業だと思うんです。ブラッティの原作にある情緒的な不安を、フリードキンは「生理的な違和感」に変換した。あの労働者は、悪魔の使いというより、世界そのものが変質し始めたことの徴候(サイン)なんですね。

石原:そう、徴候なんだ。ブラッティは「悪」を個別の存在として描こうとするが、フリードキンは「悪」を、市場の空気や、ハンマーの金属音、そして労働者の欠損した肉体といった、世界の「テクスチャ(質感)」そのものとして描いている。メリンがそのまま歩き去る演出もいい。あそこで対決しない。ただ、見て、逃げるように去る。敗北感が漂っているんですね。

池波:歩き去るメリンの背中に、私は老境の真実を見た気がする。彼が対峙しようとしているのは、単なる悪霊ではない。抗いようのない「時間」と、その先にある「腐敗」だ。ブラッティはそれを信仰の試練として書いたが、フリードキンはそれを、逃れられない人間の運命として撮った。あの白濁した眼は、メリンの未来の姿かもしれない。

司馬:メリンという一個人の「老い」と、ニネヴェという「古代の呪い」が、あの市場の埃っぽい光の中で合流してしまったわけですね。ブラッティの小説では、このあたりの叙述はまだ「異国情緒」の域を出ていないところがありますが、フリードキンの演出はもっと冷酷な、文化人類学的な残酷さに満ちている。

三島:この数分間のシークエンスだけで、映画は「説明」を捨て、純粋な「現象」へと昇華された。ブラッティが積み上げた言葉の壁を、フリードキンはたった一つの濁った眼球で突き崩したんです。

池波:……ニネヴェの砂塵と市場の喧騒を経て、今度は閉ざされた「室内」です。この静寂がまた、前の二シーンの予兆を増幅させている。時計の振り子が揺れている。この「刻(とき)」の刻み方が、生理的に実に不気味なんだな。

 

遠藤:池波さん、あの振り子は心臓の鼓動ですよ。メリン神父が抱える持病、そして彼が直面している「永劫の時」のメタファーだと感じました。ブラッティの原作では、ここでメリンの思索がかなり衒学的に綴られる。「悪とは何か」「パズズとは何か」とね。しかし、フリードキンは言葉を殺した。ただ、発掘された石塊と、揺れる振り子だけを置いた。

石原:ブラッティの限界は、やはり彼が「カトリックの弁証家」であることでしょうね。ブラッティは悪を定義しようとする。だが、この脚本でのメリンの台詞を見ると「悪に対する悪(Evil against evil)」……これです。この一言が、原作の冗長な説明をすべて無効化してしまった。メリンは、これから自分が立ち向かうものが「正義」などという甘っちょろい概念では通用しないことを悟っている。悪を以て悪を制する、その凄絶な覚悟がこの短いフレーズに凝縮されている。

 

司馬:石原さん、その「悪に対する悪」という言葉、これは歴史の深層に触れた男の諦念ですね。メリンが手に持っているのは、パズズの像と、それに対抗する別の護符(ペンダント)でしょう。考古学者としての知性と、神父としての信仰が、あの石の破片の上で火花を散らしている。ブラッティはこれを「神の勝利への伏線」として書きたがるが、フリードキンの演出はもっと冷徹だ。神の介在を感じさせないほど、そこにあるのは古い、乾いた石の感触だけなんです。


三島:司馬さん、それこそが「死の静物画」ですよ。私が感銘を受けたのは、メリンの肩越しに「時計の振り子が止まる」あの瞬間です。あれは映像における真の「神託」です。時間が止まるということは、現世の論理が、あるいは肉体の持続が否定されたということでしょう。ブラッティなら「死の予感に身を震わせた」と書くところを、フリードキンはただ物理的に時間を停止させてみせた。あの静止こそ、三島的な美学から見ても完璧な「終焉」の予告なんです。

 

野坂:……あの時計が止まる瞬間の、あの間の悪さ。たまりませんでしたね。デスクで報告書を書いている男性の、あの当惑した顔。「神父様……」と呼ぶ声の虚しさ。ブラッティの原作では、このあたりの会話はもっと「人間的」な情愛に満ちているんだけれども、映画では絶望的なまでの隔絶がありましたね。メリンはもう、生きた人間の言葉を聴いていない。止まった時計の、その「沈黙」と対話しているんだと思いました。

 

M:僕は、あの事務所のレイアウトに惹かれます。整理された報告書という「近代の知性」と、掘り出されたばかりの「異形の石塊」が同居している。そこへ、時間が止まるという超自然的な現象が介入する。アニメーションで時間の停止を描くときは、エフェクトを使いがちですが、実写でああも静かに、ごく自然に「世界の理(ことわり)」が壊れる様を見せられると、抗いようがない。メリンが時計の傍らに座り込む動作……あれは重力に屈したのではなく、運命を受け入れた男の重みです。

 

遠藤:Mさんの言う通り、あの「座り込む」というアクションに、メリンのすべてがある。そして、デスクの男が言う「行かないでほしい(I wish you didn't have to go)」という言葉。これは単なる別れの挨拶ではない。この男は、メリンが行こうとしている場所が、生者の戻れる場所ではないことを予感している。

石原:それに対するメリンの返しがいいんです。「なさねばならぬことがある(There is something I must do)」。ブラッティならここに「神の御旨により」だの「悪魔を祓うために」だのといった装飾音をつけるでしょう。ですが、この脚本の簡潔さ。フリードキンは、そういう装飾を許さなかったのだと思いますね。もはや宗教的な使命感を超えて、ある種の「呪い」のような、あるいは「血の宿命」のような、重苦しい義務感だけが残っている。

 

三島:それは「果たすべき儀式」への回帰なんだよ。メリンは、自分がニネヴェで呼び覚ましてしまったもの、あるいは自分を待ち続けていたものに対して、自らの肉体を差し出しに行く。フリードキンの演出は、メリンを聖者としてではなく、巨大な装置の歯車の一つとして描き出した。ブラッティのセンチメンタリズムを、映像の冷たい刃で削ぎ落とした結果、そこには「運命」という名の、磨き上げられた骨だけが残った。

司馬:この一連のイラク篇の結びとして、この「静かな決意」は恐ろしいほど効いています。もうすぐ物語はアメリカのジョージタウンという、これまた極めて「日常的」な、しかし「冷たい」都市へと飛ぶわけですが、観客の心には、あの止まった時計と「悪に対する悪」という言葉が、抜けない棘のように刺さったままになる。

池波:……そのとおりですね。物語の「静」と「動」の使い分け、そして何より、語りすぎないことの力。ブラッティという書き手がいながら、フリードキンという男は、その言葉を贅肉として切り捨てた。この三シーンを観ただけで、私はもう、この映画の勝利を確信せざるを得ないんだ。

野坂:……全くです。時計は止まった。あとは、地獄が口を開けるのを待つだけというわけですね。

池波:……いよいよ、このイラク篇の締めくくりです。あの「市場の路地」から「ニネヴェの丘」へ至る流れ。ブラッティの原作では、このあたりも多分に内省的で、メリン神父の脳裏をよぎる過去の記憶や神学的な予兆が言葉で埋め尽くされている。だが、フリードキンの映像はどうですか。言葉を排し、代わりに「音」と「運動」で、観客の心臓を直接掴みにくる。

石原:あのトンネルから飛び出してくる馬車のスピード感、あれは暴力ですよ、池波さん。ブラッティは「死の予感」を文章で丁寧に綴るが、フリードキンはあの猛スピードの馬車という物理的な「衝突」の危機として、死を目の前に突きつける。あの老女の怯えた顔……あれは単なる通行人ではない。メリンを、あるいは我々を追い越していく「恐怖そのもの」の顔です。

 

遠藤:そのとおりだなぁ。そして、あそこで鳴り響く鐘の音……あの速いテンポの鐘は、もはや教会の祝祭の音ではない。断末魔の警笛です。ブラッティは、悪魔との戦いを「魂の葛藤」として描こうとするけれど、フリードキンはもっと残酷に、それを「音響の不協和音」として処理している。あの音に追い詰められて、メリンはあの忌まわしいニネヴェの丘へと引き戻されるわけです。

三島:遠藤さん、あそこに立つ二人の衛兵……あの静止した影も効いています。動的な馬車と、静的な衛兵。この対比が、日常の論理が崩壊したあとの「異界の門」を表現している。ブラッティの筆致はどこか湿り気を帯びて、キリスト教的哀愁があるが、フリードキンは乾いている。極限まで乾いた砂漠の熱気の中に、突如としてあの巨大なパズズの像が現れる。あの「対峙」の瞬間に、私はある種の声も出ないほどの「美」を感じました。

 

司馬:三島さん、あの「横からの構図(サイドビュー)」での対峙ですね。あれは実に見事だと感じました。西洋の老騎士と、東洋の古層から現れた魔神。ブラッティは、パズズという存在を歴史的な文脈で説明しようと躍起になるが、フリードキンはただ、あの二つのシルエットを並べて見せた。歴史というのは、言葉で説明するものではなく、あのように「屹立する沈黙」の中にこそ宿るものだと、彼は知っている。

野坂:……でもって、あの犬ですね。噛み合う二匹の犬。あの鳴き声は、もう動物のものじゃない。ブラッティなら「悪魔の哄笑のような」なんて形容詞を使うところを、フリードキンはあの凄まじい音響そのものをぶつけてくるわけです。あの犬の争いは、これから始まるメリンと悪魔の「食い合い」の予告でしょう。理屈じゃない、ただの野蛮な殺し合いだということを、あの音が雄弁に物語っているんですね。

 

M:僕は、あのパズズ像とメリンが並ぶショットの「影」の深さに驚きました。日が沈んでいく中で、巨大な像と、小さな老人が対等に、あるいは圧倒的な格差を持って向き合っている。ブラッティの原作は「人間」が主人公ですが、フリードキンのこのシーンでは、もはや「風景」そのものが悪意を持ってメリンを飲み込もうとしている。アニメーションでも、あのような「空間の威圧感」を描くのは至難の業です。衛兵が背後に立っているという、あの不意の演出も、世界が全方位から彼を監視しているようで、生理的にゾッとしました。

 

石原:そうなんだよ。あの衛兵の配置は、ブラッティ的な「守護」ではない。「監視」であり「隔離」なんだ。メリンはもう、人間のコミュニティからは切り離された存在になった。あの夕日が沈んでいくフェードアウトの静けさ。あれは「安息」ではなく、世界が真っ暗闇の底へ落ちていく、最初の序曲なんだな。

池波:……なるほど。騒音が静まっていく中でのあのフェードアウト。耳の奥に、まだあの犬の唸り声が残っているようで、酒が喉を通らなくなる……ふふ。ブラッティは、この物語を「愛の勝利」に持っていこうと苦心したが、フリードキンの演出は、冒頭の時点で、すでに救いのない「運命の歯車」を回しきってしまった。

司馬:言語の敗北、そして映像の完全な勝利と言ってもいい。このイラク篇が終わったとき、我々はもう、ワシントンで起きる悲劇が単なる「少女の病気」ではないことを、細胞レベルで確信させられている。

遠藤:……さて。この静寂のあとに、あの冷たいジョージタウンの冬が来るわけだ。

三島:……不吉です。あまりに不吉で、美しい。

 

(つづく)