映画『エクソシスト』

 

 

公開:
アメリカ合衆国:1973年12月26日
日本     :1974年7月13日

上映時間:122分

 

監督:ウィリアム・フリードキン

(William Friedkin、1935年8月29日 - 2023年8月7日) 

米国公開時 38歳

 


 

原作・脚本:ウィリアム・ピーター・ブラッティ

(William Peter Blatty、1928年1月7日 - 2017年1月12日)

米国公開時 45歳

 

 

監督フリードキンは、ブラッティによる神学的な脚本から一切の説明を削ぎ落とし、

ドキュメンタリーの手法で徹底的なリアリズムへと再構築し、この映画は完成しました。


出演者: 
リンダ・ブレア(Linda Blair、本名:Linda Denise Blair、1959年1月22日 - )

役名:リーガン・マクニール

米国公開時 14歳

 


エレン・バースティン(Ellen Burstyn、本名: Edna Rae Gillooly、1932年12月7日 - )

役名:クリス・マクニール

米国公開時 41歳

 


ジェイソン・ミラー(Jason Miller;本名 John Anthony Miller、1939年4月22日 - 2001年5月13日)
役名:デミアン・カラス神父

米国公開時 34歳

 

 

マックス・フォン・シドー(Max von Sydow、本名: Max Carl Adolf von Sydow, 1929年4月10日 - 2020年3月8日)

役名:ランカスター・メリン神父

米国公開時 44歳

 


リー・J・コッブ(Lee J. Cobb, 本名: Leo Jacoby, 1911年12月8日 - 1976年2月11日)
役名:キンダーマン警部

米国公開時 62歳

 


音楽:

マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield, 1953年5月15日 - )
ジャック・ニッチェ(Jack Nitzsche、1937年4月22日 - 2000年8月25日)

配給:ワーナー・ブラザース

この座談会は想像によるフィクション(二次創作)です。
※本記事の構成・対話案の作成にはAI(Gemini)の協力を得ています。

座談会 p3(1974年8月某日 銀座のクラブ)

出席者:
池波 正太郎 51歳(1923年〈大正12年〉1月25日 - 1990年〈平成2年〉5月3日)
遠藤 周作  51歳(1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)
司馬 遼󠄁太郎 51歳(1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)
三島 由紀夫   (1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)

野坂 昭如  43歳(1930年〈昭和5年〉10月10日 - 2015年〈平成27年〉12月9日)
石原 慎太郎 41歳(1932年〈昭和7年〉9月30日 - 2022年〈令和4年〉2月1日) 

M      33歳(1941年 - )
日本のアニメ監督、アニメーター



池波

物語の舞台はワシントンからニューヨークへ、そして「家庭」の質がガラリと変わる。マクニール邸の、あの甘ったるいまでの幸福感に満ちた擬似家族的な空間から、カラスの母親の、古びて、澱んだアパートへ。

石原

あの地下鉄の「絶叫(スクリーミング)」から始まる導入、あれが強烈です。ブラッティの原作では、カラスの背景はもっと心理学的というか、彼の内面的な「信仰の揺らぎ」として、言葉を尽くして説明される。ですが、フリードキンのカメラは、ごった返すニューヨークのゴミ溜めのような街路と、ホームレスの「神父様(ファーザー)!」という呼びかけだけで、カラスという男が背負っている「現実の重み」を的確に提示しているんですね。

 

HOMELESS GUY: Fa-dah! Can you help an old altar boy? I'm a Cat-lick!
ホームレスの男:神父サマ!昔の侍者(じしゃ)を助けてくれんかね?ワシはカトリックなんじゃ!

 

遠藤:その通りだなぁ。あのホームレスの「昔は侍者だった」という言葉。あれは、かつては神の近くにいた者が、今は地下の暗闇で物乞いをしているという残酷な現実を突きつけている。カラスはそれを救うことができず、ただ通り過ぎる。ブラッティならここに「良心の呵責」を書き込むところを、フリードキンはただ、列車の光に照らされるカラスの硬直した横顔を撮る。この沈黙は、深い悲鳴に思えましたね。

三島

私が震えたのは、カラスがアパートに入って「カラー(襟)」を外す瞬間の官能的なまでの「脱俗」です。彼は神父としての鎧を脱ぎ捨て、ただの「ギリシャ移民の息子、ディミー」に戻る。ブラッティの筆致には、カラスの苦悩にどこか聖職者としての高潔さを残そうとする甘さがあるが、映像におけるカラスは、ただ貧しさと母親の老いに押し潰されそうな、一人の無力な男に過ぎない。

司馬

あの母親が聴いている「ラジオ」の音、あれが効いていますね。ギリシャの音楽……それは失われた故郷の音であり、同時にこの狭い部屋に閉じ込められた時間の停滞を象徴している。ブラッティは、カラスの母親への愛を「義務」と「愛情」の葛藤として書くが、フリードキンの演出は、包帯を巻くカラスの手つきや、タバコに火をつける動作の中に、その愛の「重苦しさ」を定着させたわけです。

野坂

……カラスの母の「ディミー、あんた幸せじゃないね」という一言、あれはキツい。母親というのは、神父としての肩書きなんか見ていない、息子の「魂の痩せ細り」を直感で見抜いてしまうわけです。ブラッティの原作は、この母子の対話をもう少し「救い」のある方向に持っていこうとするんですが、映画は違いましたね。カラスが「大丈夫だ」と嘘をつくたびに、部屋の暗がりが濃くなっていくような気がするんです。

 

MRS. KARRAS: You are not happy. Tell me what is the matter?
カラス夫人:あんた、幸せそうじゃないわ。何があったのか言ってごらん?

 

KARRAS: Momma, I'm all right, I'm fine, really I am.
カラス:お母さん、大丈夫だってば。元気だよ、本当に。

 

M:僕は、カラスが去り際に「ラジオの音量を上げる」というあの細かな演出に、フリードキンの非情なまでの優しさを感じました。自分の足音を消すために、母親が唯一縋(すが)っているラジオの音を大きくする。それは愛であると同時に、一種の「置き去り」の儀式でもある。テーブルに置かれる数ドルの金……あれが、神に仕える身でありながら、現世の貧しさに一矢も報いることができない男の、精一杯の、そしてあまりに惨めな誠実さに見えて、胸が締め付けられます。

石原

そう、あのラジオの音が、外の喧騒を遮断すると同時に、母親を「孤独な迷宮」に閉じ込めてしまう。原作ではカラスの孤独を「神学的」なものとして描いたが、フリードキンはそれを「社会学的」な、逃れられない地縁・血縁の泥沼として描き出した。このリアリズムがあるからこそ、あとに続く「悪魔払い」という非現実が、圧倒的な説得力を持ってくるんだ。

池波

カラスが再び「ユニフォーム(神父服)」に戻って夜の街へ消えていく。あの後ろ姿。彼は神の愛を説く立場にありながら、最も愛すべき母親を、あのような場所に放置しなければならない。ブラッティの書くドラマは、どこか高邁な精神の戦いだが、フリードキンが撮っているのは、この「泥にまみれた生活」そのものだ。

司馬

ニューヨークのゴミと、ギリシャのラジオ、そして地下鉄の騒音。これらすべてが、カラスの信仰を蝕む「悪魔」の先触れのように感じられますね。ブラッティの言葉を削ぎ落とし、カラスをこの「都市の虚無」の中に放り出したフリードキンの采配は、原作を遥かに凌駕している。

三島

……去り際のキス。それは裏切り者ユダの接吻ではなく、絶望を共有する者同士の、静かな別れの儀式だ。フリードキンのカメラは、その絶望を、一滴の感傷も交えずに、冷徹な美学の中に封じ込めている。

野坂

……不吉ですね。ワシントンの「幸福」と、ニューヨークの「貧困」。この二つが、カラスという細い糸で繋がってしまうんですね。

池波

……次は、マクニール邸地下室(ベースメント)の場面。ここから物語の「温度」が少しずつ、しかし決定的に変わり始める。リーガンが作っている粘土細工の「オレンジ色の鳥」。ブラッティの原作では、このあたりの母娘の交流をもっと牧歌的な、あるいは少し感傷的なものとして描いているが、フリードキンはそこに「ウィジャ盤」という不吉な装置を、実にあっけなく、日常の一部として放り込んだ。
 

石原

あの「ウィジャ盤」の扱いが実に見事だ。ブラッティはこれを「悪霊を招き寄せるオカルト的な儀式」として意味付けしたがるが、映画ではリーガンがクローゼットで見つけた「ただの玩具」として登場する。この「無造作さ」こそが恐ろしい。クリスが「一人でやってるの?」と聞き、リーガンが「キャプテン・ハウディがダメだって」と答える。あの瞬間のクリスの、いかにも現代的な「子供の想像力の産物ね」という軽い受け流し方が、のちの悲劇を際立たせている。

 

CHRIS: Wait a minute you need two.
クリス:ちょっと待って、二人(で指を乗せるの)が必要でしょう。

REGAN: No you don't. I do it all the time.
リーガン:ううん、いらないよ。私いつも一人でやってるもん。

CHRIS: Oh yeah, well let's both play.
クリス:そうなの、じゃあ二人でやりましょう。

The pointer pulls itself away from Chris.
プランシェット(指標)がクリスの手から逃げるように動く。

CHRIS: You really don't want me to play huh?
クリス:本当に私には遊んでほしくないみたいね。

REGAN: No I do, Captain Howdy said no.
リーガン:私はいいけど、キャプテン・ハウディがダメだって。

遠藤

仰る通りですね。あの「キャプテン・ハウディ」という名。ブラッティの原作ではもう少し詳しくその存在が示唆されますが、フリードキンの演出では、ただの「空想の友達」のフリをして忍び寄ってくる。そして、プランシェットがクリスの手から逃げるように動くあの物理的な「拒絶」。言葉で説明するよりも、あの小さなプラスチック片の動き一つが、この家に「招かれざる意志」が定着したことを証明してしまった。
 

三島

私が戦慄したのは、その後の寝室での「まつ毛を取る」という極めて肉体的な、親密な動作です。ブラッティは母娘の絆を精神的なものとして描こうとするが、フリードキンはあの指先でまぶたに触れるという、危ういまでの近さの中に執着を描いている。雑誌の表紙を飾る自分たちの姿を眺めるリーガン。そこには「女優の娘」という、常に誰かの視線に曝され、大人っぽさを強要される少女の歪みが、あのオレンジ色の鳥の粘土細工のように生々しく横たわっている。
 

司馬

リーガンの「バーク・デニングスと結婚するの?」という問いかけ。あれは、少女の嫉妬というよりも、崩壊した家庭の中で独り取り残されることへの根源的な恐怖でしょう。原作では、クリスの私生活や離婚の経緯をもっと世俗的な葛藤として書いている。しかし、フリードキンの演出は、カラス神父の母親の孤独と、このリーガンの孤独を「場所」の寒々しさで繋いでしまった。クリスが「ピザと結婚はしないわ」と冗談を飛ばす。この知的な、しかし空虚なユーモアが、リーガンの抱える闇を少しも救っていないんですね。

 

CHRIS: Okay. And tomorrow night, I'll take you to a movie, okay?
クリス:わかった。それから明日の夜は映画に連れていってあげる、いいわね?

 

REGAN: Oh I love you.
リーガン:ああ、ママ大好き。

 

CHRIS: I love you Rags. We'll have a good day yeah?
クリス:愛してるわ、ラグズ(愛称)。楽しい一日にしましょうね。

 

REGAN: You can bring Mr. Dennings if you like.
リーガン:よかったらデニングスさんも連れてきていいよ。

CHRIS: Mr. Dennings?
クリス:デニングスさんを?

REGAN: Well you know it's okay.
リーガン:ええ、いいんだよ。

CHRIS: Well thank you very much but why on earth would I want to bring Burke on your birthday?
クリス:それはどうもありがとう。でも、一体どうしてあなたの誕生日にバークを連れてくる必要があるの?

REGAN: You like him.
リーガン:ママ、彼のことが好きでしょ。

CHRIS: Yeah I like him. Don't you like him? Hey what's going on? What is this?
クリス:ええ、好きよ。あなたは嫌いなの?ちょっと、どうしたの?何の話?

REGAN: Your not gonna marry him are you?
リーガン:彼と結婚するんじゃないよね?

CHRIS: Oh my god, you kidding, me marry Burke Dennings don't be silly, of course not.
クリス:まさか、冗談でしょう。私がバーク・デニングスと結婚だなんて。バカなこと言わないで、もちろんそんなことないわ。

REGAN: What?
リーガン:え?

CHRIS: Where'd you ever get an idea like that?
クリス:どこからそんな考えが出てきたの?

REGAN: But you like him.
リーガン:でも、ママは彼のこと好きだし。

CHRIS: Course I like him, I like pizzas to but I'm not gonna marry one.
クリス:もちろん好きよ。私はピザも好きだけど、ピザと結婚はしないでしょ。


REGAN: Do you not like him like daddy?
リーガン:パパみたいに好きなんじゃないの?

CHRIS: Oh Regan I love your daddy. I'll always love your daddy.
クリス:ああ、リーガン。私はあなたのパパを愛してるわ。これからもずっと。

 

Burke just comes around here a lot because he's lonely, don't got nothin' to do.
バークがよくここへ来るのは、彼が寂しがり屋で、暇を持て余しているからよ。

REGAN: Well I heard differently.
リーガン:でも、違う風に聞いたよ。

 

野坂

……クリスの「パパをこれからもずっと愛しているわ」という言葉、あれは嘘だと思いますね。少なくとも、リーガンの耳には虚しく響いている。ブラッティはクリスの母性を美化して書く傾向があるが、フリードキンは彼女の「無自覚な残酷さ」を撮っている。誕生日にどこへ行きたいかも決まっていない。形ばかりの「観光」や「映画」。リーガンの「違う風に聞いたよ(I heard differently)」というあの一言。あれはキャプテン・ハウディ、つまり悪魔が彼女の耳元で囁き始めた、不信の種子なんですね。
 

M

僕は、あの地下室から寝室への移動、そして「オレンジ色の鳥」という色彩の使い分けに惹かれます。あのアメリカ的な、豊かすぎる家庭の地下に、ひっそりと「見つかった」古い盤。そして、ベッドの上で交わされる「まつ毛を取る」という、まるで儀式のような細かい動作。ブラッティの原作は「物語」ですが、フリードキンのこのシークエンスは「予兆の集積」です。リーガンが抱きついて「ママ大好き」と言う。あの抱擁の強さが、どこか強迫的なものに変わりつつあることを、映像は冷徹に捉えています。
 

石原

そうなんだよ。クリスが「あなたの考えすぎよ」と突き放す。この「大人の合理主義」が、悪魔にとっての最大の隠れ蓑になっている。ブラッティは悪魔を「神への挑戦者」として描こうとしたが、フリードキンはこの場面で、悪魔を「家庭の崩壊から漏れ出した寂しさ」の中に肉体化させている。あの「キャプテン・ハウディ」というふざけた名前が、やがてあのイラクのパズズ像の顔と重なる瞬間を、観客はもう予感し始めている。
 

REGAN: Well I heard differently.
リーガン:でも、違う風に聞いたよ。

CHRIS: Oh you did. What did you hear?
クリス:あらそう。何を聞いたの?

REGAN: I don't know, I just thought.
リーガン:わからない、ただそう思っただけ。

CHRIS: Well your thinking's not so good.
クリス:そうね、あなたの考えすぎよ。

 

REGAN: How do you know?
リーガン:どうしてそう言い切れるの?

CHRIS: Cause Burke and I are just friends. Okay, really.
クリス:バークと私はただの友達だから。本当よ、いいわね。

REGAN: Okay.
リーガン:わかった。

Chris kisses Regan.
クリスがリーガンにキスをする。

REGAN: Goodnight.
リーガン:おやすみなさい。

 

池波

おやすみなさい、という挨拶。これが最後の平穏な夜になることを、彼女たちは知らない。ブラッティの書く「言葉」はまだ彼女たちを守ろうとしているが、フリードキンの「カメラ」は、すでに彼女たちを、あの冷たいジョージタウンの夜気の中に放り出している。
 

司馬

粘土が乾くのを待つように、悪意がこの家の中に定着していく。ブラッティの情緒を、フリードキンは「物理的な不穏さ」に完璧に置き換えてみたわけです。この後の沈黙が、どれほど凄惨なものになるか。我々はもう、あの止まった時計の針の音を聴いているような気分になりますね。
 

三島

……すこし戻りますが、「キャプテン・ハウディはいい人だよ」。リーガンのこの言葉こそ、この映画における最も残酷な「美しい嘘」だ。フリードキンの演出は、その嘘の皮を、一枚ずつ剥ぎ取っていく準備を終えたんだ。
 

CHRIS: Captain who?
クリス:キャプテン・誰?

REGAN: Captain Howdy.
リーガン:キャプテン・ハウディ。

CHRIS: Who's Captain Howdy?
クリス:キャプテン・ハウディって誰なの?

REGAN: You know, I make the questions and he does the answers.
クリス:ほら、私が質問をして、彼が答えるのよ。

CHRIS: Oh, Captain Howdy....
クリス:ああ、キャプテン・ハウディね……。

REGAN: He's nice.
リーガン:彼はいい人よ。

CHRIS: Oh I bet he is.
クリス:ええ、きっとそうでしょうね。

 

野坂

……不吉ですね。この「灰色の馬」のあとの「オレンジ色の鳥」、そして「キャプテン・ハウディ」。

池波

どんどん進めよう……ふふふ……次にいきましょう。・・・・ニューヨークの湿ったアパートから戻ったカラス神父が、大学のバーでビールを飲んでいる。この「酒場」という設定が実に効いている。原作では、このカラスの苦悩はもっと静謐な、あるいは思索的な空間で語られることが多いが、フリードキンはあえて「騒がしい流行の音楽」と「若者の喧騒」の中に彼を置いた。
 

UNIVERSITY OF GEORGETOWN - CAMPUS BAR - NIGHT
ジョージタウン大学 - キャンパス内のバー - 夜

KARRAS: It's my mother Tom. She's alone I never should have left her.At least in New York I'd be nearer, I'd be closer.
カラス:母のことなんだ、トム。彼女は一人きりだ。そばを離れるべきじゃなかった。

At least in New York I'd be nearer, I'd be closer.
ニューヨークにいれば、少なくとももっと近くにいてやれたのに。

PRESIDENT: Could see about a transfer Damien.
学長:転属について調べてみることもできるぞ、デミアン。

KARRAS: I need reassignment Tom, I want out of this job. It's wrong, it's no good.
カラス:配置換えが必要なんだ、トム。この仕事から降ろしてほしい。今のままじゃダメなんだ。

PRESIDENT: You're the best we've got.
学長:君は我々の中で最高の逸材だよ。

KARRAS: Am I really?
カラス:本当にそうかな?

It's more than psychiatry and you know that Tom, some of there problems come down to faith, there vocation, the meaning of there lives and I can't cut it anymore.
これは精神医学以上の問題なんだ。わかってるだろう、トム。彼らの抱える問題のいくつかは、信仰や天職、人生の意味に行き着く。だが、私はもうそれに向き合えない。

I need out I'm unfit. I think I've lost my faith Tom.
辞めさせてくれ。私は不適格だ。信仰を失ってしまったようなんだ、トム。

 

石原

池波さん、あの背景の喧騒は、カラスの孤独を際立たせるための冷酷な装置ですよ。学生たちが享楽にふけっている横で、一人の男が「自分は不適格だ」と、己の根源を否定している。ブラッティはカラスの信仰の危機を、神学的なドラマとして書こうとした。しかしフリードキンは、それを「疲れ切った男の敗北宣言」として撮っている。このビールの苦みが、カラスの独白と完璧に同期しているんですね。

 

遠藤

なるほどなぁ。学長が放つ「君は最高の逸材だ」という言葉。事実ではあるが、カラスには虚しく響く。カラスは精神科医であり、神父である。科学と宗教の両輪で人間の魂を救おうとしたエリートです。しかし、彼は今、その両方に裏切られている。母を救えない医学、そして母を孤独にする信仰。原作では、この葛藤をもっと論理的に展開しようとするが、映画の演出は違う。カラスの「Am I really?(本当にそうかな?)」という、あの乾いた問い返し……あれは、もはや理屈ではないんですね。魂の枯渇そのものです。
 

司馬

学長のトムという男は、組織の論理で話している。対するカラスは、肉親の「情」と、個人の「実存」で話している。この決定的な断絶。カラスが言う「It’s wrong, it’s no good.」という言葉は、キリスト教という巨大なシステムの欠陥を指摘しているようにも聞こえる。ニューヨークという具体的な「土地」と、母親という具体的な「肉体」を前にして、神学という抽象概念が霧散していく。ブラッティはこれを「信仰の試練」として書いたが、フリードキンは「システムの破綻」として描いているように思えるんです。
 

三島

司馬さん、それは「機能不全の美学」ですよ。私が震撼したのは、カラスが「自分は不適格だ。信仰を失った」と告白する際の、あの表情の静けさだ。ブラッティの文章ではもっと劇的な葛藤として綴られるが、映画のカラスは、まるで死刑宣告を受け入れた囚人のように淡々としている。彼にとっての絶望は、もはや嵐のような感情ではなく、日常の一部になってしまった。あの流行歌が流れるバーの空気の中で、カラスだけが「聖」からも「俗」からも見放された、透明な虚無の中に立っている。
 

野坂:……あの「私はもう向き合えない(I can't cut it anymore)」という台詞。ブラッティならもっと格好のいい宗教的な言い回しを探しただろうが、フリードキンの演出は容赦がない。カラスは、神父としての職務が、苦しんでいる人々に「人生の意味」という嘘を売る商売に思えてきたんだろう。母親を放置して、他人の人生の相談に乗る。その欺瞞に耐えられなくなった。カラスを聖者としてではなく、自分の「ペテン」に耐えられなくなった一人の正直すぎる男として描いた。そこが原作より遥かに重いわけです。
 

M

僕は、このシーンのライティングと音響に惹かれます。バーの照明は暖かいはずなのに、カラスの顔だけがどこか死の色を帯びている。そして、音楽に遮られて、彼の深刻な告白が世界の片隅で小さく処理されているような感覚。ブラッティの原作は「声高なドラマ」ですが、フリードキンのこのシーンは「静かなる崩壊」です。カラスという男の芯がポッキリと折れる音が、ビールのグラスを置く音と一緒に聞こえてくる。
 

遠藤

そうなんだよ。カラスはここで「神の沈黙」を嘆いているのではなく、自分自身の「空虚」を認めてしまった。ブラッティは、この空虚を埋めるために後に悪魔を登場させる。しかしフリードキンは、悪魔が来る前に、すでにカラスの心の中に「地獄」を完成させてしまった。この順番が重要なんです。
 

石原

学長の「転属について調べてみる」という、あの官僚的な慰め。あれがカラスの絶望にトドメを刺している。カラスが求めているのは配置換えではなく、この「偽りの人生」からの脱出だ。だが、組織は彼を「最高の逸材」として繋ぎ止めようとする。この皮肉こそが、ブラッティの情緒的な筆致を越えた、フリードキンの冷徹な人間観だ。
 

池波

流行歌に満ちたバーで、一人の男が魂を捨てようとしている。この残酷な対比こそが、この映画の真骨頂なんだ。ブラッティは悪魔と神の対決を描こうとしたが、フリードキンはまず「人間がいかに無残に壊れるか」を描き切った。
 

三島

……ビールは温くなり、音楽は続き、信仰は死んだ。完璧な幕開け、というわけです。

池波

物語はいよいよ決定的な亀裂を見せ始める。落ち葉が舞い、家の正面が映し出される。ブラッティの原作では、このあたりの描写はもっと「秋の詩情」を湛えているが、フリードキンが選んだのは、静寂の中に潜む刺すような寒々しさだ。
 

石原

あのズームアウトの冷徹さ。電話で怒鳴り散らすクリスのアップから、それを背後で見つめるリーガンの姿へと引いていく。ブラッティの文章では、この親子の心理的な距離感を描くのに数ページ費やすだろう。だが、この一本のショットがすべてを語った。母親の「剥き出しの怒り」を、娘が静かに、しかし確実に吸い込んでいる。
 

遠藤

確かに……。私が注目したのは、クリスの言葉の荒廃ぶりです。「文盲テストでも受けたの?(illiteracy test)」だの「あいつは娘のことなんてどうでもいい(doesn't give a shit)」だの。ブラッティは原作で、クリスのことをもう少し理性的で情の深い母親として書き留めようとするが、フリードキンの演出は違う。彼女の持つエゴイズムと、制御不能な苛立ちを隠そうとしない。この母親の精神の「ささくれ」こそが、悪魔にとっての最高の呼び水になっている。

 

CHRIS: Hello? Yes this is Mrs. MacNeil.
クリス:もしもし?ええ、マクニールです。

Operator you have got to be kidding I have been on this line for twenty minutes.
交換手さん、冗談でしょう、もう20分も待たされているのよ。

(to Sharon) Jesus Christ, can you believe this, he doesn't even call his daughter on her birthday for christ sake.
(シャロンに)なんてこと、信じられる?娘の誕生日だっていうのに、電話一本よこさないなんて。

SHARON: Maybe the circuit is busy?
シャロン:回線が混み合っているのかも。

CHRIS: Oh circuit my ass, he doesn't give a shit!
クリス:回線なんて関係ないわ、あいつは娘のことなんてどうでもいいのよ!

SHARON: Why don't you let me?
シャロン:私が代わりましょうか?

Sharon reaches for the phone from Chris' hand.
シャロンがクリスの手から受話器を取ろうとする。

CHRIS: No I've got it Sharon, it's all right.
クリス:いいの、大丈夫よ、シャロン。

(on the phone) Yes. No, Operator don't tell me there's no answer, it's the Hotel Excelsior in Rome would you try it again please and let it ring.
(電話で)はい。いえ、交換手さん、「応答なし」なんて言わないで。ローマのエクセルシオール・ホテルよ。もう一度かけ直して、ずっと鳴らし続けてちょうだい。

Hello? Operator you've given me the number four times.
もしもし?交換手さん、番号なら4回も言ったわ。

What did you do, take an illiteracy test to get that job for Christ sake.
その仕事に就くために、文盲テストでも受けたっていうの?

(shouting) No don't tell me to be calm god damn it! I've been on this fucking line for twenty minutes.
(叫びながら)落ち着けなんて言わないでよ、クソッ!もう20分もこの忌々しい電話につきあってるのよ!

Regan sits on her bed and takes off her shoes.
リーガンはベッドに座り、靴を脱ぐ。

 

司馬

文明の利器であるはずの電話が、このシーンでは「絶絶(ぜつぜつ)」とした断絶の象徴になっている。ローマとワシントン、かつての夫と妻。その間を繋ぐはずの交換手への罵倒。ブラッティの原作にある情緒を、フリードキンは「コミュニケーションの破綻」という即物的な暴力に置き換えた。リーガンがベッドに座って、黙々と靴を脱ぐあの動作……あれは子供が現実から自分を閉ざしていく、極めて残酷な儀式に見えます。
 

三島

それは「神の不在」の写し鏡ですよ。誕生日に父親からの電話を待つ少女。それは一種の祈りだ。しかし、返ってくるのは母親の「Fucking line」という汚い言葉と、ローマのホテルの呼び出し音だけだ。ブラッティはこれを「家庭の悲劇」として綴るが、フリードキンはこれを「聖域の汚染」として撮っている。クリスが受話器を握りしめるあの手つき、あれはもはや守護者の手ではない。娘の夢を絞め殺す加害者の手だ。
 

(shouting) No don't tell me to be calm god damn it! I've been on this fucking line for twenty minutes.
(叫びながら)落ち着けなんて言わないでよ、クソッ!もう20分もこの忌々しい電話につきあってるのよ!

 

野坂

……クリスの「落ち着けなんて言わないで(don't tell me to be calm)」という叫び。これは効きますね。ブラッティなら、ここでもう少し彼女の孤独を擁護するような独白を入れるだろう。けれども、フリードキンのカメラは彼女を擁護しない。ヒステリックに喚き散らす一人の女を冷たく凝視するんです。その背後で、リーガンが静かに靴を脱ぐ。この「静」と「動」のコントラストが、のちにリーガンの身に起こる「爆発」のエネルギーを、溜め込んでいるわけです。

 

(shouting) No don't tell me to be calm god damn it! I've been on this fucking line for twenty minutes.
(叫びながら)落ち着けなんて言わないでよ、クソッ!もう20分もこの忌々しい電話につきあってるのよ!

 

M

僕は、このシーンの「色」のなさが好きです。イラクのあの黄金色の砂漠から、ジョージタウンの青白い朝を経て、今やこの家の中は、クリスの怒りという「熱」と、リーガンの孤独という「冷気」が混ざり合って、どす黒い影を作っている。原作は「愛」の物語ですが、フリードキンのこの演出は「家庭という密室の毒」の物語です。リーガンのあの無表情な顔……アニメーションなら、あの一瞬の瞳の陰りだけで、世界の終わりを表現したくなるところだ。
 

遠藤

そう、宮崎さん。あの靴を脱ぐという、なんてことのない日常の動作が、この映画では「社会的な仮面」を脱ぎ捨てて、むき出しの魔性に近づいていくステップに見える。ブラッティは悪魔を「外からの侵入者」として描こうとした。しかし、この脚本と演出を見る限り、フリードキンは「悪魔は最初から、この母親の怒りと父親の無関心の間に生まれていた」と言わんばかりです。
 

石原

交換手への罵詈雑言の中に、クリスの知性が崩壊していく様が見て取れる。クリスは「システム」の内側で戦えと言っていたが、自分自身がシステムの不備に耐えられず、真っ先に野蛮へと退行している。この皮肉こそが、フリードキンの冷徹な人間観だ。
 

池波

20分待たされて、受話器越しに狂気を滲ませる女。その背後で、自分の誕生日が死んでいくのを待つ少女。この部屋に漂う空気は、すでに悪魔が棲むのに十分なほど冷え切っている。
 

三島

……「応答なし」。これが、この家庭に下された最初の審判ですね。
 

野坂

……「靴を脱ぐ音」が、不気味な足音に変わるまで、もう時間はかかりませんね。

池波

次は、深夜のマクニール邸だ。クリスが電話で起こされる。「青いベルトのことを忘れさせないで」という、この何気ない仕事のディテールが、直後に現れる非日常を際立たせている。
 

CHRIS: Yeah? You're kidding me? I thought I just went to bed. Uh huh.
クリス:はい?冗談でしょ?まだ寝たばかりだと思ったのに。ええ。

What are we doing scene sixty one? (switches the light on)
明日はシーン61をやるの?(明かりをつける)

Okay, just remind him about that blue belt huh?
わかったわ、彼にあの青いベルトのことを忘れさせないでね。

CHRIS: What are you doing here?
クリス:ここで何してるの?

REGAN: My bed was shaking, I can't get to sleep.
リーガン:ベッドが揺れて、眠れないの。

CHRIS: Oh, honey.
クリス:あら、よしよし。

 

石原

池波さん、あのリーガンの登場の仕方が不気味ですよ。「ベッドが揺れて眠れない」という。ブラッティの原作では、この「揺れ」をもっと怪奇現象の記述として、あるいはリーガンの心理的不安として言葉で装飾している。だがフリードキンは、暗闇の中で母親の隣にふっと横たわっている子供の影、その視覚的な「侵入」だけで、家庭の平穏が侵食されていることを表現した。
 

REGAN: My bed was shaking, I can't get to sleep.
リーガン:ベッドが揺れて、眠れないの。

 

遠藤

そして、あの屋根裏のシークエンス。ブラッティはカトリックの背景を持つ作家ですから、屋根裏を「異界」や「悪の住処」として意味付けしたがる。しかしフリードキンは違うんですね。スイッチを押しても明かりがつかない。そこでクリスが「ロウソク」を灯す。この古典的な演出が、かえって現代のジョージタウンの邸宅の中に、中世のような暗黒を呼び込んでいる。

 

司馬

あの階段を下ろすポールの音、ガシャリという金属音。あれがこの家の「理(ことわり)」が外れる音に聞こえます。クリスがロウソク一本で暗闇に入っていく。ブラッティの原作にある「恐怖の予感」を、フリードキンは「光と影の物理的な闘い」に置き換えた。リーガンがベッドからそれを見つめているという構図……子供の視線が、母親を死地へ送り出す儀式のようにも見えますな。
 

三島

そのあとの、ロウソクが吹き消されるところもいい。風もないはずの閉ざされた屋根裏で、火が消える。そして暗闇の中から人の声がし、カールの懐中電灯が彼女を射抜く。この流れが実に巧妙なんです。これを怪談の定型だと言う人もいるでしょうが、私はそうは思わない。フリードキンがそういう月並みな手法に頼る作家だとは考えにくい。あれは「光の暴力性」ですよ。ブラッティはここを「カールの不器用な気遣い」として書くが、フリードキンの演出でのカールは、もはや人間というより、屋根裏の闇の一部、あるいは悪魔の先触れのような冷徹な存在として機能している。

 

野坂

……カールの「何もいません(There is nothing)」という台詞。僕なんかは、これが一番怖いんです。ブラッティなら「ネズミは一匹もかかっていませんでした」と丁寧に説明させるところですが、フリードキンは「不在」を強調したんですね。罠には手つかずのチーズが残っている。物理的な原因が「ない」ことほど、人間を追い詰めるものはない。クリスの「それは最高だわ(That's terrific)」という台詞……この強がりが、彼女の理性が崩壊寸前であることを露呈させているわけです。

 

KARL: There is nothing.
カール:何もいません。

CHRIS: Oh Karl, Jesus Christ Karl, don't do that.
クリス:ああカール、びっくりさせないでよ。

KARL: Very sorry, but you see, no rats!
カール:大変申し訳ありません。ですがご覧の通り、ネズミはいません!

CHRIS: No rats. Thanks a lot that's terrific.
クリス:ネズミはいないのね。どうもありがとう、それは最高だわ。

 

M

僕は、あの屋根裏に積み上げられた「ジャンク(ガラクタ)」の山に惹かれます。かつての記憶や、使われなくなった生活の残骸。その中で、何かが激しくぶつかる音がする。原作は「物語」の恐怖ですが、フリードキンの演出は「物質」の恐怖です。光が消え、懐中電灯の狭い光輪の中にカールが浮かび上がる。あの一瞬の静止画のような恐怖は、実写でしか、いや、フリードキンのような冷酷な目を持った監督にしか撮れない。
 

石原

カールのあの執拗なまでの「ネズミはいません!」という主張……。あれはクリスの「近代的な合理主義」を真っ向から否定している。ブラッティは悪魔を「神への反逆者」として描くが、フリードキンはこの場面で、悪魔を「論理の空白」として描いている。ネズミもいない、風もない、なのに音はし、火は消える。この「矛盾」こそが、ジョージタウンの知性を窒息させる。
 

池波

リーガンが見守る中、母親が闇に消え、懐中電灯を浴びて戻ってくる。この往復が、もはや彼女たちが元の「安全な日常」には戻れないことを示している。ブラッティの書く「言葉」の安心感を、フリードキンは「見えない衝撃音」で叩き壊したわけだ。
 

三島

……「何もいない」。その「無」の中にこそ、パズズが受肉する器が用意されたということですね。フリードキンの演出は、暗闇をただの背景ではなく、一つの「意志」として描き出している。
 

野坂:

……「チーズの塊」が残ったままのネズミ捕り……。これが、これから始まる惨劇の、なんとも皮肉な供え物に見えて仕方がない。

 

(つづく)