『永遠の0』
発行日:2006年8月23日
著者:百田 尚樹(1956年〈昭和31年〉2月23日 - )
この座談会は想像によるフィクション(二次創作)です。
※本記事の構成・対話案の作成にはAI(Gemini)の協力を得ています。
座談会 p5(2006年9月某日 銀座のクラブ)
出席者:
池波 正太郎(1923年〈大正12年〉1月25日 - 1990年〈平成2年〉5月3日)
遠藤 周作(1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)
司馬 遼󠄁太郎(1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)
三島 由紀夫(1925年〈大正14年〉1月14日 - 1970年〈昭和45年〉11月25日)
遠藤:
(グラスの氷を指で弄びながら、静かに語り出す)
……司馬さん、「意味」の話が出ましたが、私は1945年の4月、焼け野原になりつつある東京で慶應の仏文科に入りました。白鳩寮が空襲で焼失し、絶望の中でベルナノスやモーリアックを貪り読んでいた。私の徴兵検査は第一乙種でしたが、肋膜を病んで入隊が遅れ、結局、戦地へ赴く直前に玉音放送を聞いたんです。
三島:
(深く頷く)
……死の門前で引き返したということですね。皮肉や揶揄ではなく、特異な幸運ですね。遠藤さん。
遠藤:
幸運と言えば、まあ、幸運なんだけれども……その「行かずに済んだ」という負い目が、私の文学の根底にあるんだよ。あの時、戦地へ消えていった安岡(章太郎)さんたちの背中を見送った時の、あの言いようのない孤独。……だからこそ、この『永遠の0』を読んだ時、宮部が仲間のために身代わりになるような描写に、私は、救いよりも「違和感」を抱いてしまうんだ。キリスト教的な自己犠牲に見えて、その実、あまりに日本的な「美しい物語」に回収されすぎてはいないか……ってね。
司馬:
……なるほど。遠藤さんは、戦後にフランスのカトリック文学に沈潜された。ベルナノスらの描く「神の不在」や「魂の暗夜」に比べれば、この小説の着地点は、あまりに暖かすぎる……センチメンタル……ということですか。
遠藤:
そう。宮部が最後に特攻を選んだ理由を、家族への愛や、次世代へのバトンとして描く。それは、戦後の私たちが渇望した「救済」ではあるけれども、戦時下の泥沼で喘いでいた人間の「魂の真実」とは、少し手触りが違う。私があの焼け跡で感じたのは、もっと冷徹な、神も仏もいない、ただ肉体が焼けていくような虚無でしたから。
池波:
(頷きながら)
……遠藤さんの言う「手触り」、わかりますよ。私も海軍で電話を繋ぎながら、空襲で浅草の家が焼けたと聞いた時、怒りよりも先に「ああ、これで何もなくなったな」という乾いた諦めがあった。……この本の著者は、戦後の豊かな時代に育ったからこそ、あえてその虚無に「熱い血」を通わせようとした。職人仕事としては見事だが、実際にあの時代にいた我々からすれば、少しばかり「熱が強すぎて、火傷しそうだ」と感じるわけだ。
三島:
(鋭く割って入る)
火傷どころか、これは「生の甘やかし」ですよ。 司馬さんは戦車で煙を吹き、池波さんは旋盤を回し、遠藤さんは病床で死を見つめた。我々が共有しているのは、あの時代の「剥き出しの現実」です。だが、この小説の宮部は、現代の価値観というフィルターを通して濾過された、不純物のない「理想の死者」に過ぎない。……司馬さん、あなたがこの本を「過小評価」するとすれば、それは技術的な不備ではなく、この「歴史への甘え」に対してではないですか?
司馬:
(手帳を閉じ、三島を真っ直ぐに見据える)
……三島さん。私はね、四平の戦車学校で、機械に弱くて同期に笑われていた自分を、今でも愛おしく思っているんです。あの「情けない自分」こそが、私が歴史を書く上での立脚点だ。……この著者は、あまりに「強い人間」を書きすぎた。日本人が本当に反省すべきは、宮部のような天才がいなかったことではなく、私のような、右も左もわからぬまま鉄の箱に押し込められた凡夫たちが、なぜあの狂気を止められなかったか、という一点にあるはずなんです。
(沈黙が流れる。遠藤が最後の一口を飲み干し、池波が時計を見る)
(つづく)
