言葉の勉強 「道は沖(ちゅう)なれども、これを用うればまた盈(み)たず」 | 瀟々のブログ

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道は沖(ちゅう)なれども、これを用うればまた盈(み)たず


(道はからっぽでなにもないようだが、使っても使っても無限のはたらきが出てくるものだ)


ものがいっぱいに入ったままの器は、そのままでは役に立ちません。空っぽで空間があるからこそ、ものを受け入れる、人の役に立つわけです。


沖(ちゅう)とは何もない空虚な状態のこと。漢和辞典には「湧く・虚しい・中・深く広い」などの意味も載っています。老子が言う「道」は、姿もかたちもなく、空っぽのようなものだけれど、どれだけ使ってもいっぱいになってしまうことがなく、底が知れぬほど深く、万物を生み出す根源のようだというのです。


いつもからっぽにしてあるから、そこから無限の働くがうまれる。


それは、どれだけハードな仕事をこなしても、すぐに最初の百パーセントの状態に戻せる機能が働いているようなものでしょう。


さらに、「天と地の間は、空っぽだから無限で、万物が生まれ出て尽きることがない。動かすことにますます多く出る」とも言っています。人間も同じでしょう。いっぱいに満ちた状態では何も生み出せません。満ちたものは使い果たしてしまい、しかしそこで止まらず、すぐ元の空の状態に戻すことができれば、また百パーセントの力が発揮できるはずです。


「老子」第4章より