三島由紀夫にとって、26歳年上川端康成は文学上の師であったと云う評論家

もいるにはいるが処が、三島自身は川端を決して「」と仰いではいなかった

    

   【1968年2月川端のノーベル受賞に駆け付けた

 

    

抑々、2人の出会いは三島の父、平岡 梓の学友のそのまた友人が川端康成だった。

1946年、東大生の三島が21歳の時に文芸誌「人間7月号に「煙草」と云う小説

を発表する際に川端が推薦してくれたのが契機となり文壇デビューし、二人の交流

が始まった。  翌1947年1月2日には三島は川端邸に年始挨拶している。

 

三島由紀夫が文学上の”師”と仰いだ森鷗外。16歳の三島が書いた「花ざかりの森」

 の思想が遺作「豊饒の海」へと続いて行くのだ

 

三島が川端に献本する際、常に「川端様」と書いていたので梓は何故「川端先生

と書かないのだと咎めたに対し、三島は『自分と川端さんとは、師弟の関係なんて

云うものではありません、つまり原稿を下見して頂いたり、構成に就いてご批判や

ご指導を仰ぐこと等一切しておりません。しかし自分を世の中に出して下さった唯一

の大恩人ではあります』と。

 

昭和1968年ノーベル賞が三島由紀夫でなく川端康成に決まった経緯は、純粋に

文学性云々の問題ではなく、三島は川端より26歳も若年であった事、そして川端

が三島に『君は未だ先があるので今回は私に譲って下さい』と内々依頼していた。

 

後々判明したのだが、小説『宴のあと』(1960年)の所謂プライバシー裁判(1964年)

係争中の三島を、ノーベル文学賞選考委員の一人がなんと三島由紀夫を選りにも選って

問題のある左翼作家」と見做したのだ。左翼作家!と誤解したとは、俄には信じ難い

のだが此れが真相なのだ。

 

しかも此の委員はお粗末な事に『宴のあと』以外の作品を読んでいなかった。 

 

(参考文献:倅三島由紀夫・没後/三島由紀夫 或る評伝/川端康成・三島由紀夫

                  往復書簡/三島由紀夫研究年表)