三島由紀夫は、事ある毎に太宰治と松本清張の二人は全てが嫌いだと公言していた。
このテーマに就いては過去当ブログでも若干は触れた、因みに太宰と松本は同年
1909年生まれだ。 先ず太宰治に就いては、
『私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は一種猛烈なものだ、 第一に
この人の顔が嫌いだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味が嫌いだ。
第三にこの人が自分に適しない役を演じたのが嫌いだ。女と心中したり
する小説家はもう少し厳粛な風貌をしていなければならない』
と自著の評論 「小説家の休暇」(1955年) に書いている。 23歳の三島が、38歳の
太宰と東大の飲み会で偶々同席となったが、酒豪太宰と下戸三島が全然会話が成立
せず散々な初対面だったとのエピソードも残っている。
【三島由紀夫 1925-1970】 【太宰治 1909-1948】 【松本清張 1909-1992】
一方、松本清張に就いては、1963年に中央公論社が 「日本の文学」 と云う企画を
し其の編集委員として三島の他に、川端康成、谷崎潤一郎、大岡昇平、高見順、
伊藤整、ドナルド・キーンと錚々たる文学者が名を連ねた。
処が、作家選考会で冒頭三島が、
『松本清張はこの企画には相応しくない、若し対象とするなら編集委員
を辞退する』 と云い放った。
清張は1957年に 「点と線」 と 「ゼロの焦点」、1960年には 「日本の黒い霧」 と
矢継ぎ早にベストセラーを放ち一躍流行作家になっており、そして作品は多く映画化
もされていた。当時既に松本清張は所謂大衆小説ジャンルでは超一流と言われていた。
一方、 三島自身も本来の純文学以外に大衆小説的な 「青の時代」 「金閣寺」
「愛の渇き」等の如き社会小説も書いてはいたが、「金閣寺」を除いて三島の
社会小説に限っては文芸評論家の評判は必ずしも芳しくなかった。
このジャンルでは、松本清張が時代の寵児であり右に出る者はいなかった。
GHQの情報機関の謀略が背景の“下山事件“や政界の黒幕を描いた 「日本の黒い霧」
等は当時の流行語にもなる程だった。
そんな状況で、この分野では三島は松本清張には適わなかった、矢張り内心忸怩たる
ものがあったのだろう、 宣べなるかな。