三島由紀夫の生れた1925年は昭和元年(大正14年)従い、彼の年齢は昭和の年号と同じ
なのだが自決したのが1970年、昭和45年は45歳の時だった、以前にも書いたがこの自決
にも関係のある思想と言われている陽明学の所謂『知行合一』に就いて、具体的に興味を
持ったのは三島が38歳の時と意外と遅いのだ、 1963年に、大学の剣道部の人間模様を
描いた短編小説『剣』 を書いたのが契機となり、作家と云うものは観念的では駄目だ、
その志しと云うものを実行しなくては無意味との思いに至り、『知行合一』の思想を探求、
そして実践する事になったのだ。
【陽明学者、安岡正篤 (1898-1983)】
其の為1963年に三島と同い年の友人、教育評論家の伊沢甲子麿 (1925-2016) と会い、
陽明学を深く学びたいので何かお薦めの本があれば教えて貰いたいと相談した事があった。
三島由紀夫は、1968年5月26日付け安岡正篤(1898-1983) 宛書信で同氏の陽明学の著作
を友人、伊沢甲子麿を通じ安岡本人から贈って貰った事への謝辞を述べている。
安岡正篤は1950年頃から「首相指南役」の立場にあった。彼を信奉し師と仰いだ政治家には
吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫など多くの首相がいた。
しかしこんな安岡に晩年、信じ難いスキャンダルがあったのだ。 1983年、当時決め台詞
『地獄に堕ちるわよ!』 でTVバラエティー番組に出演していた銀座のバーのマダムの
細木数子(1938-2021)は自身の占い業に箔を付け、そして遺産目的で当時 認知症を
患っていた85歳の安岡正篤を騙して勝手に婚姻届を出していたが、 其の僅か数カ月後
40歳年上の安岡は死去した。
【1980~90年代TV占いで名を売り、銀座のクラブママ時代に安岡正篤と知合う】
しかし安岡の死後に遺族(先妻との二男二女)が婚姻の無効を提訴、結局 『細木数子との
婚姻関係は無効』 の調停が成立した。 著名な陽明学者に狙いを定め、再婚を仕掛けた
細木数子の手練手管だけは天下一だ。
実に恐ろしや天下の悪女、細木数子は別に借金苦の島倉千代子にも近付き興行権を奪い
シコタマ儲けたのが当時週刊誌を騒がせた。松本清張の『黒革の手帖』の舞台に似ている。