1970年8月31日、三島由紀夫は羽田空港国際線ロビーに居た、 澁澤龍彦夫妻(仏文学者

で小説家。 渋沢栄一の遠縁)が欧州旅行に出発するのを見送りに来たのだ。   

三島が空港に見送りに出向くのは非常に稀な事だ。 

              

        【三島由紀夫と澁澤龍彦の交流は深かく長く自刃まで続いた

            

       【遺作となった“高丘親王航海記” は文藝春秋社から1987年発刊された】

 

三島の遺作、豊饒の海(四部作)は1970年11月25日自刃当日に脱稿したとされているが、 

ドナルド・キーンにはその年の夏には完成したと伝えていた。

             

  【三島は自刃の年の夏にドナルド・キーンを滞在中の下田東急ホテルに招いた

     【三島由紀夫とドナルド・キーンとの親密な交流を物語る著書の数々

 

後日、澁澤龍彦(1987年59歳没)は 『態々見送りに来て下さったのは、密かに別れを告げる

為だったのに違いないと素直に信じられる様になった』 と語っている、 三島由紀夫はその

3ヶ月後に自刃したのだから。  澁澤龍彦は正に三島の数少ない親友の一人だった。

 

その澁澤が三島の自刃に就いて 『その原因なるものが、 あれこれ取沙汰されているが、

そう云う詮議立ては全て要らざる御節介なのである(中略)太宰治の自殺は、女が彼の

アリバイだったとすれば、 三島氏の自殺においては明らかにイデオロギーが彼の

アリバイである(中略)素顔と仮面との区別を完全に消し去って、最後迄自己劇化を完遂

する事が、三島氏の精神にとっては必要だったのに違いない。』と。 

澁澤発言は成程、成程、成程なのだ、流石に三島由紀夫の親友ならではの理解だと思う。

 

因みに、川端康成の自殺の原因も太宰治と同じ女だ、 自宅のお手伝いさんへの思慕を

完遂出来なかったのが、直接的原因と云われている。 

 

 【川端康成と太宰治の自殺原因は女性を巡っての事で、三島由紀夫とは全く異質だ

 

(参考文献:三島由紀夫全集/三島由紀夫おぼえがき/私の遍歴時代/倅・三島由紀夫

        三島由紀夫研究年表/三島由紀夫 死と真実/悼友紀行)