赤穂浪士の討入りは、今から略320年前の元禄15年12月14日と言われている、処が
元禄15年は閏年だった為、1年が13ヶ月あったので、これを考慮すると、元禄15年
12月14日は現代の暦だと、1703年1月30日と由だ。
従い、今月が正に、四十七士の吉良邸討ち入りした月なのだが、ご存知の通り江戸時代
から赤穂義士として忠義の鑑と敬われている。 処が、三島由紀夫の『葉隠入門』(S42)に
拠ると大石内蔵助と同年の葉隠聞書の山本常朝(1659-1719)は、こう語っているのだ。
【三島由紀夫著「葉隠入門」S42年初版単行本と全集収録分】【佐賀藩士、山本常朝】
『浅野殿浪人夜討も、泉岳寺にて腹切らぬが落ち度なり。 又主を討たせて
敵を討つこと延び延びなり。若しその内に吉良殿病死の時は残念千万なり 』
要するに、浅野家の家臣たちが直ぐ様吉良を討たなかった事が失敗。主君が殺された
のに(その敵討ちに2年も費やしている)万一それ迄に吉良が病死でもしたら取り返
しのつかない事になる、と、山本常朝は赤穂浪士に批判的なのだ。
江戸城内での吉良上野介への浅野内匠頭の刃傷沙汰後、赤穂藩が廃藩となり浅野家筆頭
家老の大石内蔵は、山科に移り住み京都祇園で放蕩三昧。
歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』や映画などでは、遊び呆け最早討ち入りの気概は無いと、
吉良側を油断させる為だったとされる、実際は本当に遊び好きだったと後々語られている。
【歌舞伎 『仮名手本忠臣蔵』】
大石が遊んだのは祇園の茶屋「一力」と言われているが、実際はずっと庶民的な伏見に
通っていたと云われている。 しかも大石は赤穂地元では元々“昼行燈” と渾名された
所謂 「かぶき者」だったのだ。この事からすると、葉隠で語られている事実なのだろう。
因みに、広辞苑によると、かぶき者とは傾奇者、歌舞伎者とも書くが、江戸時代、異様な
風体をした軽佻浮薄な遊侠な徒や伊達者。 又、茶道や和歌などを好む者を好き者
(数寄者) と呼ぶが、数寄者より更に異風に傾いた者と言う意味。