1954年11月、歌舞伎座で三島歌舞伎の 『鰯売恋曳網』 が上演されていたが、その折

中央公論社の嶋中会長が米国の文芸評論家ドナルド・キーン氏(2019年2月逝去)に

三島由紀夫を初めて紹介した。

    

    【三島由紀夫とドナルド・キーン対談 於:福田家 虎ノ門 1964年6月18日】 

 

そして1956年にキーン氏が三島の近代能楽集の内の戯曲 『班女』 の翻訳をした事が

切っ掛けとなり、三島の自決まで交流が生涯続いた。

1998年5月2 5日初版の中央公論社『三島由紀夫 未発表書簡ドナルド・キーン氏宛の97通

と云う書籍がある、三島由紀夫とドナルド・キーン氏の間の手紙のやり取りを収録したもの。

当時彼は京都大学で日本の古典文学研究をしていた。

 

以前にも当ブログでも触れたが、この書簡は全て日本語、当初手紙の宛先は片仮名で 

ドナルド・キーン様」、後に、1957年には 「怒鳴門起韻様」 と書き、 その後は 

怒鳴門鬼韻様」 「奇因先生」 「鬼因様」 「黄殷先生」 と云う如く2人は万葉仮名を

楽しんでいる。

 

そして三島自身は当初は「三島由紀夫」と署名していたが、1961年頃から、 「幽鬼夫」

「幽鬼亭」「雪翁」「幽鬼尾」「魅死魔幽鬼尾」「魅死魔幽鬼夫」 と適宜変えている、

そして三島自決の1970年11月のキーン氏宛の最後の手紙の署名は本来の「三島由紀夫」

に戻った、本文は、

       『 小生たうたう名前通り魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は

        学問的に正に正確でした。小生の行動に就いては全部分かって頂けると思ひ、

        何も申しません。ずっと以前から、小生は文士としてではなく武士として死に

        たいと思っていました。今さら御挨拶するのも他人行儀みたいですが、(中略)

        この夏下田へ来て下さった時は、実に嬉しく思ひました。 小生にとっての最後

        の夏でもあり、心の中でお別れを告げつつ、楽しい時を過ごしました 』

 

この手紙を受け取ったドナルド・キーン氏はどんな気持ちだったのだろうか、今となっては

知る由も無い

 

(参考文献:三島由紀夫未発表書簡/三島由紀夫研究年表/三島由紀夫全集/悼友紀行)