三島由紀夫は静岡県下田をサンクチュアリ(聖地)と呼んで、毎年夏には家族と共に
夏休を楽しむ事にしていた、そして下田市内の東急ホテルを定宿としていた。
『この夏下田へ来て下さった時は、実にうれしく思ひました。小生にとっての
最後の夏でもあり、心の中でお別れを告げつつ、楽しい時を過ごしました』
と、自決の昭和45年11月、三島由紀夫は、深交のあるドナルド・キーン氏 (Donald
Keene令和3年96歳没) 宛に、正に遺書とも言うべき手紙を書いていた、しかも文中
に ”最後の夏” と書いている。
【三島由紀夫と親交の深かったドナルド・キーン氏】
この手紙の冒頭には、
『前略、小生たうたう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。(中略)
小生は文士としてではなく、武士として死にたいと思ってゐました』
と、当然この手紙は三島由紀夫が直接キーン氏宛に郵送したのではなく、三島の自刃後、
三島瑤子夫人から直接同氏に手渡されたのだ。この遺書とも云うべき手紙には11月付け
とあるが、日付は書いて無かった。
自刃の僅か3ヶ月前、昭和45年8月11日に三島はドナルド・キーン氏を下田に招待した、
三島は自身の作品の翻訳者として長年親交を結んでいた同氏と最後のお別れをする為に
呼寄せたのだった。
キーン氏が三島のホテルの部屋で、机上の原稿を見ると、三島は、
『これは“天人五衰”の結末です。 一息に書いたものですが、新潮社の人には
何も言わないで下さい。 この事を知ったら、きっと渡してくれと云うで
しょうが、未だこの前の所を大分書かなければならないので。』
と、三島は語ったとドナルド・キーン、徳岡孝夫両氏共著の『悼友紀行』に書いている。
【横山郁代氏著「三島由紀夫の来た夏」とD・キーン/徳岡孝夫氏共著「悼友紀行」】
因みに下田市で三島由紀夫が日本一のマドレーヌ(洋菓子)だと絶賛した“日新堂菓子店”
とレストラン”ポルトカーロ”のオーナーでジャズボーカリストの下田出身の横山郁代さん
が、平成22年に書下ろした『三島由紀夫の来た夏』(扶桑社刊)には、地元で三島と
出会った中学生だった横山さんの、三島を巡る数々の興味深いエピソードや三島の下田
での過ごし方が書かれている。
三島由紀夫の普段の飾らぬ人となりがとても良く描かれているお薦めエッセイだ。
(参考文献:悼友紀行/三島由紀夫研究年表/三島由紀夫未発表書簡/豊饒の海/
三島由紀夫の来た夏/)