川端康成と、26歳年下の三島由紀夫は文学上の師弟関係にあったと言われているが
実は、三島は川端を決して「師」と仰いではいなかった。
2人の出会いは三島の父、平岡 梓の学友のその知人が川端康成だった関係で、
昭和21年に学生の三島が文芸誌「人間」(7月号)に「煙草」と云う短編小説を発表
したのだが、それは川端康成が推薦してくれたのが契機なのだ。それが三島の文壇
デビューとなった。
そして翌22年1月2日には三島は川端邸に初めての年始挨拶、こうして二人の交流が
スタートした。
処が、三島が献本する時 「川端様」と書いたので父の梓は『何故 川端先生と書かない
のだ』と咎めたに対し、三島は『自分と川端さんとは、師弟の関係なんて云うものでは
ありません、つまり原稿を下見して頂いたり、構成に就いてご批判やご指導を仰ぐ事等
一切しておりません。しかし自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人ではあります』
と川端への感謝の気持ちはあるものの、文学者としては評価していなかったのだ。
【昭和43年川端のノーベル文学賞受賞のお祝いに駆け付けた三島由紀夫】
そして随筆家の戸板康二(昭和4年-5年)が「あの人この人」に、三島の川端評に就いて、
『川端康成の文学は陰惨な文学です、と云う意味の事を囁いたのを記憶する、
また ”XXみたいな文学” と云ったのだが、差別的な表現なので明記は避ける』
と書いている、要するに三島は、川端の作品を嫌っていたのだ。
(参考文献:倅三島由紀夫(没後)/川端康成・三島由紀夫往復書簡/三島由紀夫研究
年表/あの人この人)